I was only joking訳したりとか

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木下古栗『GLOBERISE』で俺たちの関係は崩壊 23:17

 

 

 最初のページから読み始めて、まず目に入るのは「天然温泉やすらぎの里」というタイトル。温泉施設を利用する男二人の話らしい。消防士の先輩後輩の関係にあるようで、奥さんの話だとか、昔お風呂であった珍事の話だとかとりとめない会話を続ける。二人ともおかしなところのない、現実世界にもたくさんいる平凡な男たちのようだ。露天風呂にいた二人だが、先輩の男皆川が先にでてジェットバスに入る。五分後、後輩山田にサウナに入ろうと声をかけるが返事はない。戸を開けると人影がなく、タオルとロッカーキーが落ちている。困惑する皆川。そして最後の一行。「薄曇りの空の下、声を張り上げて呼びかける皆川の足もとに、白く不透明に濁ったゼリー状の何かが、激しく躍動的に飛び散っていた。」


 これで終わり。不穏な状況に解決が示されぬまま小説は唐突に終わり、読者は置いてきぼりをくらう。木下古栗の『グローバライズ』という短編小説集ではこのような唐突さが何度も現れる。冒頭からの2、3作は世界の突然の変貌におぞましさを感じさせるが、読み進めていくうちにおぞましさが笑いに転化する。おかしいのは日常的な世界を執拗に細かく描写しているところで、その後の飛躍がより活きてくる。せっかくの描写力をくだらない笑いに使う、この才能の圧倒的ムダ遣い。いや、ムダ遣いにおける圧倒的な才能。潔いまでにエレガントだ。エレガントさはどれだけの労力を無駄に変えられるかにかかっている。

 

 今作は『グローバライズ』というタイトル通り、外国文化が文章中に積極的に使われている。ただ、使われ方がねじれている。たとえば、「絆」という作品ではある英語曲が使われているのだが、オシャレ感の演出の意図をもって英語曲を使っている訳ではない。そもそもその曲がオシャレさを感じさせることは英米人にとってはもちろん我々日本人にとっても有り得ない。そして、詳しくは書かないが聴くシチュエーションが異常だ。地獄のような状況といっていい。極めつけは「道」という短編に登場する坊主が道を尋ねてきた中国人女性にむけ放つインチキ中国語だ。「伊勢丹」という単語をこんな風に使うなんて!ネタバレせずに説明することは不可能なので読んでもらうしかないが、本当にくだらなすぎる。

 

 しかし、くだらない文章の嵐から見えてくるのはグローバリゼーションに対する、今まで誰も考えつかなかった視点からの鋭い批評だ。『グローバライズ』はローマ字では『GLOBERISE』と書くが、綴り間違いの英語が日本と外国文化との接触に潜む阿呆らしさを象徴している。作品群に通底しているのは「いつだっておかしいほどだれもがだれか馬鹿にしあいながら生きるのさ」といった世界観だ。登場人物たちは友人だろうが同僚だろうが上司だろうが他人だろうがすべて見下し合う関係でできている。相手が日本人同士でも外国人相手でも変わらない。日本人もアメリカ人も中国人もお互いを誤解しあいながら小馬鹿にする。つまり、グローバライズは馬鹿にする相手が増える以外の変化を生まない。賛美するのも否定するのも同じくらい馬鹿らしい。そんな、ある種根もふたもない認識を持って世界を切り刻んだ結果がここに書かれた小説なのだ。同じような認識を持っている人間は実は大勢いるかもしれないが(というかそうした心持ちは誰の心にも住んでいるが)、とことん不真面目な方向でつきつめて具現化するやつは滅多にいない。阿部和重や平田オリザも近い資質をもっているが(古栗の作品はよく比較されがちな中原昌也よりもこの二人の作品に近い)グローバリゼーションという枠組みに対して、人を人と思わないような人間だけが登場する世界をぶつけてくるところに今を射抜く視力を感じる。遠くから標的を狙い撃つヒットマンのような批評性が、世界の崩壊を幻視しながら笑っているのだ。
 

 今読むべき小説と言ったら断然これをすすめる。小説に政治性を持ち込め!

 

 

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309024523/

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『ニューオーダーとジョイディヴィジョン、そしてぼく』を読んでほしい 22:59

 5月27日、新木場スタジオコースト、ニューオーダーの来日公演。60近くのおっさんが踊り、ぼくらが踊る。人で溢れ返ったフロアは決して居心地よくなかったし、演奏も当然のごとく上手くなかったけど、最高だった。だって2曲目にCeremonyを演奏したんだもの。世界で一番好きな曲のひとつ。Joy Divisionの終わりを知らせ、New Orderの始まりを告げた珠玉の名曲。これだけで行ってよかったと思う。Regretやらなかったていう不満の声も聞こえたしたしかに聞きたかったけど、Ceremony聞けたなら何も文句は言えないよ。冗長な新作の曲にもきらめく瞬間はあったけど、やはり代表曲が素晴らしすぎる。Bizzare Love Triangle,Perfect Kiss,Temptation。何も言うことはない、ただただ最高。

今回はVJも素晴らしくて、曲のイメージを明確に映像化することが出来るだけのセンスと愛を感じられた。とくにYour Silent Faceの海やビル群を斜め線で区切りながら映していく映像がかっこよかったし、メンバーの名前がクレジットされる演出がグッときた。そしてアンコール、Atmosphereの映像で「Forever Joy Division」の文字。感傷的すぎるかもしれないけど、ここで感動しないファンはいない。そのあとのLove will~とBlue Mondayという代表曲中の代表曲の演奏はそうとうグダグダだったけど、そこはご愛嬌。とにかくNew Orderというバンドの美しさを堪能できた一夜なのでした。


(しかし喧嘩別れしたフッキーいないのさみしかったけど、映像みると奴の自意識がうっとうしいな。。。)

 というようなライブレポは実は前置きで、本題は去年の秋に出版されたバーナード・サムナーの自伝『ニューオーダーとジョイディヴィジョン、そしてぼく』がいかに素晴らしいか伝えることなのだ。とはいえ、この本読んだのもう半年前くらいだし細かい内容は忘れつつある。だが、こういうものは勢いなので書いてしまう。

 まず、当然のことながらジョイディヴィジョン、ニューオーダーファンを喜ばせる回想録として最高である。メンバーたちの出会いやスタジオでの様子の克明さとか、イアンが死ぬ直前にジェネシス・P・オリッジと仲良かったなどの詳細な事実とかが書かれていて、あの独特すぎる音楽が作られていく背景を素直に伝えてくれる文章だ。加えて、1950年代生まれの英国労働者階級のリアルが丹念に描いていてとても新鮮。生まれ育ったコミュニティの崩壊やバーニーが最初に就いた市役所での仕事の虚しさを伝える文章が素晴らしくて、英国の青年たちの屈折の出来上がり方がよくわかる。そりゃあパンクでポストパンクだわ、あんたら。
バーニーの文章には音楽を職業にすることの恍惚と不安がにじんでいる。彼が進んだ年月は不思議な狂騒に満ちて、そのせいかこの回顧録は『百年の孤独』『真夜中の子供たち』のような魔術的リアリズムの空気を通わせている。現実世界とは違うルールを持つ世界がこの自伝のなかで立ち現れているのだ。本格的な文学の匂いも嗅ぎ込むことが出来るし、音楽と文学両方を愛好する人間にはたまらない一冊なのである。
 そして、バーニーがイアン・カーティスに施した催眠術のテープ起こしが付録。ヤバすぎる。イアンが自分の前世について語るその臨場感。1835年に本屋に本をおろす仕事をしていたり17世紀になんらかの戦争の影響で牢屋に閉じ込められた男として語ったり。イアン・カーティスがあの険しい顔で目を閉じて言葉を紡いでいく姿が目にありありと浮かぶ。すごいテープが残ってたもんだ。

 というわけでニューオーダーのライヴでなんらかの感銘を受けた人やニューオーダー・ジョイディヴィジョンに興味を持ちはじめた人には是非一読していただきたい一冊なのです。


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