I was only joking訳したりとか

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LAヴァイス(インヒアレント・ヴァイス)について 22:45
ポール・トーマス・アンダーソン監督のトマス・ピンチョン『インヒアレント・ヴァイス』が先月から公開されたが、今回はその原作『LAヴァイス』について軽く言及。(映画も見たが、あの映画を語るには一度の鑑賞では足りないと感じた)


 
 「彼女は細い路地を抜け、階段からのぼってきた」
   「寄せては返す波の音が坂の下から聞こえてくる」

 
 小説の冒頭部から二つの文章を引いてみたが、ここからわかることは、この小説内でなにかが起こるときにそれは上下運動を伴って現れる、ということだ。ロスのヒッピー風私立探偵ラリー・’ドック’・スポッテッロの家に突然元カノであるシャスタが現れるところから、この小説ははじまる。すべての事件が開始する合図は、シャスタが階段を「上る」ことにあり、それに対して坂の「下から」世界が呼応する。その後で、シャスタは失踪した愛人であり不動産王ミッキー・ウルフマンの捜索を元カレドックに依頼する。
 たとえば205ページ。ボリス・スパイビー(ミッキー・ウルフマンのボディガード)がビリヤードで真上から打ち下ろすように球を回転させるショットを披露する。この後にボリスは失踪する(ちなみにボリス・スパイビーという名前はThe Whoの『Boris The Spider』という曲名に由来すると思われる)。
 または82ページ、ドックが車でウルフマン邸へと向かう場面。通りの壁には「見慣れないツタの花が満開で、まるで炎の色をした滝が壁から流れ落ちているようだ。」喧噪とドタバタにまみれたウルフマン邸シーンをツタの滝が予告している。
 挙げたらキリがない。ドックの元秘書ソルティレージュが語る失われた大陸レムリアの再浮上(140ページ)、ラスベガスのさびれたカジノ〈キスメット〉のシャンデリアからはクリスタルが回るルーレットの上へ落ち(322ページ)、不始末によるアパートの火事は上の部屋のウォーターベッドの水で消火される(403ページ)。ある登場人物の死因はトランポリンからの転落死だ。
 このように、この小説では上下運動の描写が頻繁に登場し、その度にドタバタが展開されていく。逆に、ドックが水平線を見つめるシーンは非常に穏やかなタッチで描写される。垂直は〈動〉、水平は〈静〉、それがLAヴァイスの世界のルールだ。なにより、この小説のエピグラフは「歩道の敷石の下はビーチ!」というパリ五月革命時の落書きなのだ。

 1970年のロサンゼルスという時代と土地。60年代後半の世界のうねりと熱狂を体現したようなLAの姿が、そこで示された新しい世界への希望が、少しずつ潰えていく。そんな荒廃へ向かう時代の空気を示す、という意図がこの小説には存在する。ウッドストックの一週間前にチャールズ・マンソンとその取り巻きは若きハリウッド女優を殺した。その恐怖がロスにどんな不自由さをもたらしたかは、『LAヴァイス』で執拗に言及される。
 同時にこの小説のなかにはインターネットの元となった「APPAネット」についての描写もある。時代の荒廃の中で立ち現れてくる新たな世界の風景がここからは見える。電子上の新たなサーフボード。結局不都合なものが見えた時点で、LSDのように政府や警察から取り上げられるものだとわかっていても。
 ドックは入り組んだアメリカンワールドに翻弄されながらも、一人のサックスプレーヤーの生活を救う。そして、不透明な霧に包まれながら新しいなにかを待つ。上下運動の描写は、世界の没落と勃興に共振している。『LAヴァイス』で示される絶望と希望は今と地続きであり、決してただの回顧録にはとどまらないのだ。


 補足として。247ページに自動車整備工場が登場するが、メインの工場は「カマボコ型のプレハブ建築を縦半分に切り、その二つの半キレが頭上高く交叉するように溶接され、まるで協会のアーチ天井のよう」になっている。車の修理工場は教会なのだ。この小説のメインキャラクターにはそれぞれ乗っている車があり、製作年とメーカーがすべて示されている。これほど、車とパーソナリティが密接に結びついてる小説もないだろう。筆者は車については疎く、その車がどういう特性を持っているかを知らないのが残念。いずれにせよ、車と音楽とハッパとサーフィンが当時の若者のすべてであったことの意味がこの小説を読めば見えてくる(Steely Danの『Babylon Sisters』はLAの若者が見ていた風景を見事に描写している。『LAヴァイス』と『Babylon Sisters』およびSteely Dan作品全般とのシンクロニシティはヤバい)。

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アンドロイド演劇『変身』 16:14
 
   
   平田オリザ演出のアンドロイド演劇『変身』を観た。
 フランツ・カフカの有名不条理小説の「朝起きたら毒虫に変わっていた」を、「朝起きたらアンドロイドに変わっていた」に置き換え、演劇化した作品。舞台となる再築された早稲田小劇場どらま館に入ると、早速白い顔のアンドロイドがベッドに寝そべっている。顔以外は内部構造がむき出しになっている彼は、小さく揺れ動きながら上演を待っている。
舞台となる場所時代も原作とは違い、2040年のフランスが舞台だ。どうやら国全体の経済は芳しくなく、なぜ始まったかもわからない戦争に人々が駆り出され、移民問題は依然として大きな問題となっている。そんなフランスの近未来のなかで、両親と妹と同居している会社員グレゴワール・ザムザは目覚めると自分の体が機械になっていることに気づく。しかも足が動かなくて、働くこともできない。家族は最初、タチの悪い冗談かと思うが、そのうちに現実に起こったことだと認めざるを得なくなる。

 平田オリザ演出の舞台を観るでこれで3回目、その他戯曲も何冊か読んでいるが、彼のテーマは常に一貫している。言い換えれば、同じことばかりを問題にしている。戦争と貧困と人種問題、この3つがワンセットになった世界の出口なしの感覚。平田演劇は常にこれだ。常に同じなのは、作品だけでなく、作品を観たあとに残る感じも同じだ。これはおかしい。同じことを観ていれば飽きてくるのが普通じゃないのか。なのに、毎回なぜ、とてつもない何かに触れたような感触が残るのだろう。

 『二人のヴェロニカ』で有名な母役イレーヌ・ジャコブの椅子の蹴り方には驚いた。椅子が完全に垂直に跳ね上がる、あの蹴り方で抱える怒りの行き場のなさがはっきりと視覚化されている。父役のジェローム・キロシャーの、グレゴワールのベッドの横に置いてある植物の鉢に水をやる姿の痛々しいペーソスも素晴らしい。アンドロイドの目の見開き方、腕の上げ方はその存在の儚さを見事に証明する。役者たちの演技、一つ一つが私たちの目を奪う。平田作品に触れた時に感じる「とてつもないなにか」は、目の前で生身の存在が演技をしていることそのものへの、驚きや喜びに由来するのではないか。
このことは、平田の戯曲『南へ』でも引用され、今作では最後に強烈な効果を導き出す宮沢賢治の詩、『月天子』がなによりも雄弁に物語っている。

私はこどものときから
いろいろな雑誌や新聞で
幾つもの月の写真を見た
その表面はでこぼこの火口で覆はれ
またそこに日が射していゐるのもはっきり見た
後そこがたいへんつめたいこと
空気がないことなども習った
また私は三度かそれの蝕を見た
地球の影がそこに映って
滑り去るのをはっきり見た
次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
最後に稲作の気候のことで知り合ひになった
盛岡測候所の私の友だちは
――ミリ径の小さな望遠鏡で
その天体を見せてくれた
亦その軌道や運動が
簡単な公式に従ふことを教へてくれた
しかもおゝ
わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに
遂に何等の障りもない
もしそれ人とは人のからだのことであると
さういふならば誤りであるやうに
さりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに
しかればわたくしが月を月天子と称するとも
これは単なる擬人でない


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グザヴィエ・ドラン、Mommyについて 04:05


 驚いた。これはヤンキー映画だ。地方のヤンキーの親子の愛憎劇だ。
 まるで日本の至る所で繰り広げられているようなヤンキーの物語を、グザヴィエ・ドランが映画にするなんて。
そもそも、「Mommy」たる母親ダイアンのファッションセンスがやばい。ぴっちりした薄手のパーカーに刺繍のほどこされたジーンズ、加えてけばけばしいショッキングピンクのブーツ。まるで「ドン・キホーテ」で買い物しているおばちゃんのような服装。息子のスティーブも負けずにヤバい。ラグビーシャツに革ジャン、首には金ネックレス、ボトムはジャージ。ギャング気取りが完膚なきまでにダサい。ファッションアイコンであるドランが、ものすごくイケてない親子が主人公の物語を作ろうとしている。なぜ、このような作品を作る気になったのだろうか?
 しかし、そんなヤンキー親子を中心に描かれるこの映画はむせ返るようなロマンチシズムと、緊迫したエロティシズムに彩られた、それでいてあまりにも爽やかな儚く美しい青春映画として、僕や君の心をとらえる。
 ストーリーは母親ダイアンが施設に収容された息子スティーブを引き取り、引っ越して新生活を始めるところからスタートする。スティーブが放火を働き、施設の少年に大やけどを負わせたのが原因だ。立て直しを図ろうと誓う二人だが、ダイアンは運転中に事故に合い車をダメにし、さらには仕事もリストラ。精神的な障害を抱えるスティーブはキレやすく、新生活は殺し合い寸前の大げんかばかり。どうしようもないどん底のなかで、現れるのがもう一人の主要人物、向かいの家に住む主婦カイラだ。カイラは吃音を抱え、コミュニケーションがとれず引きこもりがち。そんなカイラとダイアン親子がひょんなことで親しくなり、表面上正反対に見えるダイアンとカイラは意気投合する。
 このカイラがとてもいい。普段押さえがちの感情が表面に出たときの豊かさ、怒るときも笑うときも動物的な美しさが溢れていて、おばさんといっていい風貌の女性に対して恋するような気持ちを味わってしまう。この映画はアスペクト比1:1の正方形の画面という非常に特殊な手法をとっているが、映画後半のカイラの横顔の美しさに触れると、この横顔を撮りがたいがために、この手法が採用されたのではないかと考えてしまうほどだ。
 とにかく、この映画は美しい。美しいものなどほとんど出てこないのに、この中年女性2人とクソガキ1人を中心に据えたこの映画はたまらなく美しい。美しいは正義じゃないが、正義は美しさのなかにしか宿らない。悪も然り。グザヴィエ・ドランは正義も悪も幸も不幸もエロスもアガペーもすべて詰め込んで終わりのない日々を切り取ってみせる。つまりそれは僕らの日々でありだれかの日々であって。
 この映画が教えてくれるのは、2時間の間、僕らは自分以外の誰かの人生を生きることができて、それはとても素晴らしいことで、そんな魔法をかけられる映画という存在がいかに有り得がたい、奇跡的な奇跡であるか、ということだ。人生。
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