驚いた。これはヤンキー映画だ。地方のヤンキーの親子の愛憎劇だ。
まるで日本の至る所で繰り広げられているようなヤンキーの物語を、グザヴィエ・ドランが映画にするなんて。
そもそも、「Mommy」たる母親ダイアンのファッションセンスがやばい。ぴっちりした薄手のパーカーに刺繍のほどこされたジーンズ、加えてけばけばしいショッキングピンクのブーツ。まるで「ドン・キホーテ」で買い物しているおばちゃんのような服装。息子のスティーブも負けずにヤバい。ラグビーシャツに革ジャン、首には金ネックレス、ボトムはジャージ。ギャング気取りが完膚なきまでにダサい。ファッションアイコンであるドランが、ものすごくイケてない親子が主人公の物語を作ろうとしている。なぜ、このような作品を作る気になったのだろうか?
しかし、そんなヤンキー親子を中心に描かれるこの映画はむせ返るようなロマンチシズムと、緊迫したエロティシズムに彩られた、それでいてあまりにも爽やかな儚く美しい青春映画として、僕や君の心をとらえる。
ストーリーは母親ダイアンが施設に収容された息子スティーブを引き取り、引っ越して新生活を始めるところからスタートする。スティーブが放火を働き、施設の少年に大やけどを負わせたのが原因だ。立て直しを図ろうと誓う二人だが、ダイアンは運転中に事故に合い車をダメにし、さらには仕事もリストラ。精神的な障害を抱えるスティーブはキレやすく、新生活は殺し合い寸前の大げんかばかり。どうしようもないどん底のなかで、現れるのがもう一人の主要人物、向かいの家に住む主婦カイラだ。カイラは吃音を抱え、コミュニケーションがとれず引きこもりがち。そんなカイラとダイアン親子がひょんなことで親しくなり、表面上正反対に見えるダイアンとカイラは意気投合する。
このカイラがとてもいい。普段押さえがちの感情が表面に出たときの豊かさ、怒るときも笑うときも動物的な美しさが溢れていて、おばさんといっていい風貌の女性に対して恋するような気持ちを味わってしまう。この映画はアスペクト比1:1の正方形の画面という非常に特殊な手法をとっているが、映画後半のカイラの横顔の美しさに触れると、この横顔を撮りがたいがために、この手法が採用されたのではないかと考えてしまうほどだ。
とにかく、この映画は美しい。美しいものなどほとんど出てこないのに、この中年女性2人とクソガキ1人を中心に据えたこの映画はたまらなく美しい。美しいは正義じゃないが、正義は美しさのなかにしか宿らない。悪も然り。グザヴィエ・ドランは正義も悪も幸も不幸もエロスもアガペーもすべて詰め込んで終わりのない日々を切り取ってみせる。つまりそれは僕らの日々でありだれかの日々であって。
この映画が教えてくれるのは、2時間の間、僕らは自分以外の誰かの人生を生きることができて、それはとても素晴らしいことで、そんな魔法をかけられる映画という存在がいかに有り得がたい、奇跡的な奇跡であるか、ということだ。人生。