I was only joking訳したりとか

| CALENDAR | RECOMMEND | ENTRY | COMMENT | TRACKBACK | CATEGORY | ARCHIVE | LINK | PROFILE | OTHERS |
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | - | - | posted by スポンサードリンク - -
夢の反動 01:34
 bertoiaのアルバム『modern synthesis』はどの時間帯、どの気候にも合うのでよく聴いてしまいます。いろんなシチュエーションで聴けるっていいですよね。

このアルバムの特徴はいわゆるシューゲイザー的なサウンドを基調にして、「夢から目覚めたあと」を表現していることにあると思います。だからか、あまり逃避音楽としての狭さは感じません。

歌詞には「目覚めたら〜」「〜(未来、明日)を恐れる」という表現が多く含まれます。
夢から覚めて、現実と呼ばれる近未来に対峙しなくてはならなくなった状態。bertoiaの音楽はそのような瞬間の歌です。
「夢見がち」「ドリームポップ」などと評されることの多いシューゲイジングサウンドに合わせて「覚めた感じ」を表現するバンドは珍しいのではないでしょうか。シューゲイザーバンドは歌詞を載せないないことが多いですが、それは夢が言葉を論理化しない世界だということと関係しているかもしれません。
bertoiaは歌詞を載せていることから、少なからずその他のバンドとの差別化の主張があるのだと思います。

素敵なのは苦境についての歌が多い(そればかりではないですが)のに曲調はポップに前を向いているところ、また少し茶目っけを含んだ印象を与ることです。
このアルバムの曲の特徴として最初が1度のコードで2つ目のコードが6度の半音上、7度の半音下のコードを使っていることが多いところがあげられます(2,3曲目がそうだったと思います)。
この6度の半音上、7度の半音下のコードというのはドレミファソラシドの音階にとっては不協和音になるいのですが、どこかすっとぼけてるような感じがします。
こういうコード使いはbertoiaの表現の核に似合う気がします。

彼らのサウンドの心地よさについて。
音同士を混ぜ合わせるのも特徴的です。生ドラムと打ち込みが溶けあい、ギター同士が溶けあい、強い主張を避けます。ベースラインが動きますがそれも派手ではありません。むしろベースが単調な場合が多いシューゲイザーバンドの中で動くベースラインは曲を活かすオリジナルな魅力になっています。ベースの方がメインの作曲者なのが大きいのでしょう。
かれらのすべての楽器が曲に対して平等な力関係を持って溶けあっているところはThe Nationalの音楽と共通しているように思います。

サウンド的に、楽曲的に取り立てて新しいことをやっているとは思いません。にもかかわらずここからどのような音楽を届けてくれるのか楽しみになる。この不思議をどう考えたらいいのか。今はそれについて楽しく悩んでいます。

http://www.youtube.com/watch?v=PhyHuuIYxX8&feature=related


| 音楽 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by tachesong - -
the concept(改稿版) 05:28
 まどまぎ見てたら朝です。

というわけで最速レビュー!

(アニメーションの知識、特に技術論の知識がないので物語に沿って考えたこと中心です。本来自分の中のルールでは技術を知らないでの批評は反則なのですが、今回はあらゆることを考える上でヒントとして機能するものだと思うので特別に。ストーリーについて語っているので、もちろんネタバレです)

不条理な現実とそこからの救済への祈り、すべてを受け入れる神=概念、という構図を考えてみて、『魔法少女まどか☆マギカ』はキリスト教を踏襲した物語として捉える事が出来ると思います。聖書の現代版、カジュアル版とも言えるかもしれません。

第10話まで(つまり今日まで)の話まででは映画『冷たい熱帯魚』との相似点を多く感じていました。
物語の構造が似ているのです。主人公は弱さや悩みを自意識に抱えた弱者で、そこへ突然現れて主人公をだます愛想のいい他者がいて、主人公は暴力と恐怖の渦へのみこまれていくという構図は『冷たい熱帯魚』と『マドマギ』で同じです。

『冷たい熱帯魚』の監督、園子温は自作を「救いのないことにより癒される暗いファンタジー」とパンフレット内のインタビューで称しておりました。
まどまぎも「暗いファンタジー」としての絶望を宿した途方もない暴力を望む声によって支えられる作品だと思っていました。

というわけで、正直最終話は予想外でしたよ。
まさか神になるとはねぇ。
すべての道が途絶えそうになった時、まどかの選択は「希望そのものになることを希望する」というものでした。
この力により今までの魔法少女(歴史的に有名な女性も魔法少女だったという設定)の絶望を解き放したまどかは、その希望の代わりに、人間ではない概念として存在する以外になくなりました。

少し「概念」という言葉について語ります。
佐々木中の『切り取れ、あの祈る手を』という本の中で、ニーチェが「妊娠」「出産」の比喩を多用することに付言して、「概念」とは「concept」という英単語の日本語訳であること、そして「concept」には語義に「妊娠」という意味があることを示しています。
つまり「概念」とはなにかを宿すこと、妊娠することです。
「概念」となったものがなにを妊娠するか。
それは世界です。
まどかは「概念」となることで新しい世界の創始者となりました,

すべての絶望をひとり背負い、自らは生命ではない概念となるうこと、そこから新しい世界を始めること。これはまさにキリストの描写と重なります。

キリスト教世界の古典、聖アウグスティヌスの『告白』の中での神の描写も時空を超越した概念、「この世界のconcept」としての神です。たとえば以下のような描写があります。

「あなたは物体的なものの心象ではなく、わたしたちが喜び、悲しみ、望み、恐れ、おぼえ、忘れなどするような心を持つものの情念でもないように心そのものでもないのである。あなたは心の主なる神であられて、これらのものはすべて変化するが、あなた自身はすべてのものの上に変化することなくとどまり、しかもわたしがあなたを知るようになってから、かたじけなくもわたしの記憶に宿っておられる」(『告白』第十巻 第二十五章)

この描写はまどかが再編した世界に生きるほむらにとっての、まどかの描写としても活きます。

また、『マドマギ』の同性愛的描写にも言葉を添えていいかもしれません。物語に紡がれていく同性同士の少女たちの心のぶつかりあいであり、最終的には概念となるまどかとそれを悲しむほむらの裸の抱擁というシーンに向かいます。
キリスト教は同性愛を禁じながら同性愛的傾向を保持している宗教です。宣教されたアフリカの部族がキリスト教と出会うことによって、同性愛に目覚めるというケースも確認されているそうです。前出した『告白』にも男性同士の交流は描かれるのに男性と女性の交流はほとんど描かれません。
もちろんアニメーションにはいわゆる「百合」の流れがあるのでそこに乗っかったアニメとしても考えることもできるのですが、キリスト教的な物語であるがゆえに同性愛の要素が濃くなったと考えるとよりこの物語の底が少し見えてくるように思えます。

なぜこのようなストーリーを作家は選んだかには考える余地が十分にあり、今のところそこまでは踏み込んで考えられません。
ただ、絶望からの希望の産出としてのストーリーが、キリスト教のストーリーと類似したということは注目していいものです。

今の時代に、あのドでかい宗教体制について考えてみることは、あらゆる楽しみ(とそれに伴う苦しみ)に深みを加えることかもかもしれません。

| その他 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by tachesong - -
反復とドラマ 14:25
 久しぶりの更新です。

最近夜中に起きたりすると、ほぼ間違いなくcureの『faith』というアルバムを聴いています。
今から30年前に出たアルバムです。

cureはパンクの後に出てきたいわゆるポストパンクのバンドとして世に現れました。
パンクバンド、およびポストパンクバンドのほとんどが影響を与えられているといわれるミュージシャンがいてそれはデヴィッド・ボウイなのですが、キュアーもボウイの大ファンだったようです。
ボウイは70年代初頭から文学性・物語性を伴う表現を展開してきたように思われます。
かの有名なジギー・スターダストが代表的ですが、ドラマティックな表現を志すにあたりボウイはコード進行や曲展開を変化の富んだものにしていきます。

同じ70年代初頭には3つの重要なリズム・モデルが登場したといわれていて、それはジェームス・ブラウンのファンク、フェラ・クティのアフロビート、加えてノイ!のハンマービートです。
これら3組のミュージシャンたちが演奏し、録音したリズムに共通する特徴、それは反復です。
同じリズムを繰り返すことにより、高揚感を得られることを実践していたのがこの人々で、北米、アフリカ、ヨーロッパと別の地域で、同じように反復を特徴とした音楽が力をつけてきていました。
この反復の高揚感が今グルーヴと呼ばれているものと同義である気がします。

cureの『faith』というアルバムはリズム・パターンが曲を通して一定です。コード進行も2パターン以上はありません。演奏はJBやフェラのバンドと比べなくても上手ではありません。それでもcureの音楽には反復の魅力があります。グルーヴがあります。JBのように強靭ではなくても。

cureのメンバーがJBやフェラ、あるいはノイ!を聴いていたのかはわかりません。しかし、かれらは反復を特徴とした音楽を選びました。変化に富んだボウイの音楽を愛でていたにも関わらず。

総合して『faith』に際立つcureの音楽の特徴は、ボウイ的なドラマティックな表現に反復性、ミニマリズムをぶつけたことにあると思います。

右手に聖書、左手にエドガー・アラン・ポーを持って歌っているようなロバート・スミスの歌は孤独、無力さ、死を想起させながら人間のドラマをとらえていきます。
「きみに触れたまさにその瞬間に、物語は終わりへと突き進む、あまりに早く」「沈黙の中で大地に口づけている」「なにもない、ただ信仰だけが残る」
こうした彼の言葉を表現するために反復のリズムとリヴァーヴのかかった音の冷たい印象は最適だったように思われます。
ドラマとミニマルの出会いは後の音楽に与えた影響は考えられている以上に大きい気がします。

とりあえず、深夜のサウンド・トラックに最適。

http://www.youtube.com/watch?v=Y3J31RoqTAI
| 音楽 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by tachesong - -
| 1/1 |