まどまぎ見てたら朝です。
というわけで最速レビュー!
(アニメーションの知識、特に技術論の知識がないので物語に沿って考えたこと中心です。本来自分の中のルールでは技術を知らないでの批評は反則なのですが、今回はあらゆることを考える上でヒントとして機能するものだと思うので特別に。ストーリーについて語っているので、もちろんネタバレです)
不条理な現実とそこからの救済への祈り、すべてを受け入れる神=概念、という構図を考えてみて、『魔法少女まどか☆マギカ』はキリスト教を踏襲した物語として捉える事が出来ると思います。聖書の現代版、カジュアル版とも言えるかもしれません。
第10話まで(つまり今日まで)の話まででは映画『冷たい熱帯魚』との相似点を多く感じていました。
物語の構造が似ているのです。主人公は弱さや悩みを自意識に抱えた弱者で、そこへ突然現れて主人公をだます愛想のいい他者がいて、主人公は暴力と恐怖の渦へのみこまれていくという構図は『冷たい熱帯魚』と『マドマギ』で同じです。
『冷たい熱帯魚』の監督、園子温は自作を「救いのないことにより癒される暗いファンタジー」とパンフレット内のインタビューで称しておりました。
まどまぎも「暗いファンタジー」としての絶望を宿した途方もない暴力を望む声によって支えられる作品だと思っていました。
というわけで、正直最終話は予想外でしたよ。
まさか神になるとはねぇ。
すべての道が途絶えそうになった時、まどかの選択は「希望そのものになることを希望する」というものでした。
この力により今までの魔法少女(歴史的に有名な女性も魔法少女だったという設定)の絶望を解き放したまどかは、その希望の代わりに、人間ではない概念として存在する以外になくなりました。
少し「概念」という言葉について語ります。
佐々木中の『切り取れ、あの祈る手を』という本の中で、ニーチェが「妊娠」「出産」の比喩を多用することに付言して、「概念」とは「concept」という英単語の日本語訳であること、そして「concept」には語義に「妊娠」という意味があることを示しています。
つまり「概念」とはなにかを宿すこと、妊娠することです。
「概念」となったものがなにを妊娠するか。
それは世界です。
まどかは「概念」となることで新しい世界の創始者となりました,
すべての絶望をひとり背負い、自らは生命ではない概念となるうこと、そこから新しい世界を始めること。これはまさにキリストの描写と重なります。
キリスト教世界の古典、聖アウグスティヌスの『告白』の中での神の描写も時空を超越した概念、「この世界のconcept」としての神です。たとえば以下のような描写があります。
「あなたは物体的なものの心象ではなく、わたしたちが喜び、悲しみ、望み、恐れ、おぼえ、忘れなどするような心を持つものの情念でもないように心そのものでもないのである。あなたは心の主なる神であられて、これらのものはすべて変化するが、あなた自身はすべてのものの上に変化することなくとどまり、しかもわたしがあなたを知るようになってから、かたじけなくもわたしの記憶に宿っておられる」(『告白』第十巻 第二十五章)
この描写はまどかが再編した世界に生きるほむらにとっての、まどかの描写としても活きます。
また、『マドマギ』の同性愛的描写にも言葉を添えていいかもしれません。物語に紡がれていく同性同士の少女たちの心のぶつかりあいであり、最終的には概念となるまどかとそれを悲しむほむらの裸の抱擁というシーンに向かいます。
キリスト教は同性愛を禁じながら同性愛的傾向を保持している宗教です。宣教されたアフリカの部族がキリスト教と出会うことによって、同性愛に目覚めるというケースも確認されているそうです。前出した『告白』にも男性同士の交流は描かれるのに男性と女性の交流はほとんど描かれません。
もちろんアニメーションにはいわゆる「百合」の流れがあるのでそこに乗っかったアニメとしても考えることもできるのですが、キリスト教的な物語であるがゆえに同性愛の要素が濃くなったと考えるとよりこの物語の底が少し見えてくるように思えます。
なぜこのようなストーリーを作家は選んだかには考える余地が十分にあり、今のところそこまでは踏み込んで考えられません。
ただ、絶望からの希望の産出としてのストーリーが、キリスト教のストーリーと類似したということは注目していいものです。
今の時代に、あのドでかい宗教体制について考えてみることは、あらゆる楽しみ(とそれに伴う苦しみ)に深みを加えることかもかもしれません。