I was only joking訳したりとか

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音楽によって意味は変節し気味gimme gimme shake。(神聖かまってちゃん、新作の考察) 00:32

突然ですが音楽評を書いてみたいと思います。
前から書いてみようと思っていたのですが、いろいろな方の文章に刺激を受けたことがきっかけになったようです。
ブログで音楽評を今から始めることはとても痛い感じな気もするんですが気にしません。
バンドのブログに書くのは少しどうかと思うので新しいブログを開くかもしれません。
とりあえず今日はここから発信。
最初のテーマは年末に2枚のアルバムを発表したあの人たちです。

少し前Aphex Twinを聴いてて、ふと神聖かまってちゃんのことを考えてしまいました。
AphexはCDの中で声を機械によって極端に変節させていて、それはまるで子供のいたずらのようなのですが、
幼児性を想起させる声のいじり方がかまってちゃんと共通していると感じたのです。
このとき、ぼくはまだ「つまんね」と「みんな死ね」を聴いてなかったのですが、
後日聴いて驚いたのは電子音の使い方までAphex化していることでした。
バランスや整いを無視した騒音まがいのビートの音色が特に「つまんね」では目立ち、
そのようなバランスを無視していくところも幼児性を想起させるものでした。


かまってちゃんの最初の音源「友だちを殺してまで。」にぼくは心を踊らされながらも夢中になりきれなかった理由として
「曲のコード進行、音使い、リズムが酷使してて飽きてくる」というものがありました。
たとえば「ロックンロールは鳴り止まないっ」のサビと「ゆーれいみマン」のイントロのコード進行は同じですし、「ぺんてる」のサビと「23歳の夏休み」のイントロのコード進行は同じです。
そしてどの曲も単純明快な8ビートにノイズギターと松任谷由美の「春よ来い。」のようなピアノのアルペジオが乗っているという構造を持っています。
曲が似ていること自体はその似ている部分が「かまってちゃん印」になるし構わないと思うのですが、いかんせん似すぎていて、これでは歌詞にそれぞれ独特のユーモアがあったとしても、聴いていられないと感じました。


かまってちゃんを評するときによく使われる言葉に「同時代性」というものがあります。
この言葉は「今の時代がどのようなものであるかを存在として体現している」ことを表していると僕は考えています。
例えばgood on dancefloorの加藤綾一氏はele-kingの合評(http://www.dommune.com/ele-king/features/article/001493/index.php)で「おどけた言葉遣いと態度で、フラストレーションを不器用にも解放しながら突き進んでいくさま」に同時代性を感じていると語っています。
Music for Life ―― 音楽と生きる ――(http://www.dommune.com/ele-king/features/article/001493/index.php
というブログを書き続けているマサ太郎氏は「友だちを殺してまで。」を2010年の年間ベストアルバムに選んだうえで、今、ここで鳴っていることに意味があり、その意味があるゆえにかまってちゃんがハズレ者たちの共済としてのロックンロールの歴史に連なる存在になれる、と語っています。


たしかに今彼らほど「同時代性」を持つバンドはいないでしょう。
ワーキングプアたちが引き裂かれたセーフティネットをすり抜けて奈落まで落ち切り、小さな叫び声をあげている。そんな声に誰もが少しだけ胸を痛めながらなんとかやり過ごしている時代。
その様を克明に描いていたのは間違いなく彼らです。
だけれども、というよりだからこそ彼らは付きまとうイメージを剥がして、音として聴かれなくてはいけない、と感じます。
彼らはその「同時代性」を音の中に注いだがために、美しく輝けるのだと思います。
の子を中心としてかまってちゃんのメンバーが生きるなかで感じてきたものがどんなに時代の写し鏡として機能できるとしても、それは表現としていびつながらも美しい形を与えられたがゆえに意味をもつものです。
だからぼくは「今ここで鳴っている音楽」が「音楽としてどのように」鳴っているかを描くことで彼らの音楽を、彼らの意味を言葉にすることを選びます。
マサ太郎氏は「音楽に意味なんてない」とのたまう大人ぶったやつにつばを吐き「鳴らされることに意味がある音楽は、やはり存在する」と返していましたが、その言葉になぞらえて僕の立場を表明するならこのようになるでしょう。
「音楽は音楽として鳴らなきゃ意味がない。」


「つまんね」「みんな死ね」という二つのアルバムで彼らは音の選び方にヴァリエーションを持つようになりました。
冒頭にあげたAphex Twinとの類似点をうかがわせる
「黒いたまご」「通学LOW」「夜空の虫とどこまでも」の電子音中心の冷たく壊れた印象を与えるサウンドメイキング。
電子音とトラッシュなバンドサウンドを融合させた「最悪な少女の将来」、3連シャッフルのリズムの「ねこラジ」「怒鳴るゆめ」「僕のブルース」
祭囃子のようなパーカッションからはじまる陽気な曲調のポップ「自分らしく」、ツービートで進む「男はロマンだぜっ、たけだ君」など、「友だちを殺してまで。」のときに曲が似ていたことを、本人たちも自覚していて猛省したようなサウンドヴァリエーションの幅広さ。
そして大事なのはサウンドヴァリエーションを広げたにも関わらず、かまってちゃん印が強く残っていることです。
これには拍手を送りたいです。
サウンドの幅が広がりつつも、歌詞のモチーフは一貫して、疎外感です。
サウンドが変わりつつも歌詞のモチーフが変わっていないことがひとつの効果をあげているように思います。
2枚のアルバムのなかでのぼくのベストトラックは「黒いたまご」なのですが、この曲とたとえば「ぺんてる」や「ゆーれいみマン」を聴いた印象は全く違います。
「ぺんてる」「ゆーれいみマン」は疎外感によってうまれるどこまでも空回っていく情熱を感じるのですが、
「黒いたまご」では疎外されたことで力を失い死んでいく虫のような、死んだ胎児をみつめる母親のような、情熱を完全にすりきらしたあとの虚無を思い起こします。
同じモチーフでも音の違いによって聞こえる印象がまったく変わって聞こえるものです。
だから「つまんね」「みんな死ね」の曲たちはそれぞれ違う顔をもっています。
同じ顔をしていた「友だちを殺してまで。」の曲たちから、いろいろな表情を見せてくれる「つまんね」「みんな死ね」へ。
彼らは理想的な変化を遂げたのかもしれません。


最初書き始めた時はもっとかまってちゃんを批判する文にするつもりだったのですが、なぜだか高い評価をくだしていました。
批判をかくならmomoはキーボードの音色にもっと気を使ったほうがいいし、の子の低音の音程は聴いてられないし(うまくなったらつまらないじゃん、という外野からの声が聞こえてきそうですが、低音部で音が外れていることは表現として必然を感じないです)
)みさこさんはパワフルなのはいいけどキックがいまいちだし、ちばぎんはとにかくがんばれと言いたいです。


最後に、個人的なわがままを言うなら「黒いたまご」は僕が大好きなスピッツの1stを思わせるところがあって、
それはとても残酷なものをのんきさを装って描写するような、ねじれた姿勢を両者に共通して感じるからでしょう。
おそらくそんな視線はいたずら心と残酷なものでもすべて見てしまう正直さを併せ持った幼児の精神を持っているからだと思います。
かまってちゃんがより幼児性へと近づいているいま、そういう残酷かつ奇妙な美しい音楽をもっと聴かせてほしいなとぼくは思っています。


| 音楽 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by tachesong - -
あけました 21:44
 年明けてからだいぶ経ってしまいました。
皆様今年もよろしくお願いします。
最近はCD・レコードたくさん買ってたくさん聴いています。
年々リスナーとしての情熱が上がっているような気がします。

今聴いてたもの。鎮座ドープネス。


年明け初のライヴは2月3日!下北沢モナレコーズにて
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