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私とあなたをつなぐ暴力 ー大澤信亮『神的批評』についてー 10:09



 大澤信亮『神的批評』(新潮社、2010)を読みました。

宮澤賢治論、柄谷行人論、柳田國男論、北大路魯山人論の4本の批評からなる本で、それぞれが独立しながらも一本の幹でつながっている印象を受けます。
この一本の幹となるテーマを言葉で表すとしたら、「生きることとは暴力であり、その暴力といかに向き合うか」となるでしょう。
この本は文学批評とは呼べないでしょう。大澤が見ているのは、テクストを通した4人の生き方です。彼らが「生きるという暴力」とどのように接してきたか。それを吟味しようとしているので、作品の質を問うことはしません。
あとがきで、自分の批評原理は「自分を問うこと、自分が存在するという不思議を問うこと」であると述べているように、「生きるという暴力」というテーマは大澤本人の生き方のテーマです。
「生きるためには食べることが必要であり、食べることには必ず暴力が伴う。菜食主義になろうとも、暴力を伴うことには変わりない。植物がむしり取られるときに痛みを感じないとどうして説明できようか。水も火も空気も、生きているかもしれないではないか。私の存在自体が暴力なのではないだろうか」
このような感覚を前提として大澤の文が書かれているのを読者は読みながら感じます。
暴力とは他者との関係性で起きることです。暴力を考えることは他者を考えることであり、さらに言えば他者を考えることは他者との関係性のなかで育まれる「私」を考えることです。
自ずと「神的批評」の照射は他者を、私を問うものへと広がります。

こうした感覚は幸村誠の描く漫画とシンクロしているように感じます。
2070年代、近未来の人類がより宇宙へと進出した世界を舞台に描かれた「プラネテス」では、欲望を広げていくこと、その恩恵と代償の間で葛藤しながら生きる人々を中心にさまざまなテーマが問われています。生死、家族、宇宙、戦争、環境、愛。まとめてしまうと陳腐な、しかし私たちから切り離すことが不可能な問い。宇宙への憧れを抱いてきた主人公ハチマキこと星野八郎太は葛藤と出会いの中で「宇宙とは遠い存在ではなく、私をふくめたすべてが宇宙であり、宇宙に存在するすべての他者が私と関係している。他者をなくして、私は存在しない」という一つの解答を少しずつ見出していく。このハチマキの成長をストーリーの中心としながら、しかし一つの正解にまとまった終着ではなく、多くの疑問・解答が矛盾したまま同時に在り続ける、という形で物語は終わりを迎えます。
その後に幸村が描きだした今連載中の「ヴィンランド・サーガ」はヴァイキングが活躍する11世紀の北欧を舞台にした作品で、そのテーマは少し絞られたように感じます。それはつまり要約すると「暴力と愛」です。終わらない暴力の世界において、愛とはなんなのかというテーマを追求しているように感じます。「プラネテス」の時に比べ、より鋭利にキャラクターの感情を描くことが可能になったペン先でテーマの奥へと進んでいくことができるか。生きるという暴力を全肯定するヴァイキングたち、戦争と政略の渦中にいる王族と国家、神の尺度でこの世界を測るキリスト教徒たち、そうした異なった世界観がぶつかり合いながら進んでいく展開のなかで、どのような深みを見出していくのか。これからも読み続けていきたい作品です。
「ヴィンランドサーガ」の中では殺戮シーンと同じくらい、もしかしたらそれ以上食事のシーン、食卓に人々が集まるシーンが頻出し、強い印象を与えます。暴力を考える際に食への考察が避けられないという認識がそこに働いているように感じます。
恐らく、幸村の持つ認識と大澤のそれとはかなり近いところに位置しているようです。

また、二人の作品は宮澤賢治という人物でつながっています。
大澤は『神的批評』冒頭に「着想から発表まで十年かかった」宮澤賢治論を掲げ、幸村は「プラネテス」の中で賢治の詩を登場させたり、「グスコーブドリの伝記」をストーリーの中に持ち込んだりなどして賢治の陰を反映させようとしています。彼らが賢治からどのように影響を受けたか特定することは実質的に不可能ですが、この三者をつなぐものを一つ上げるとすれば、ひとつひとつの小さな繋がりから全体のつながりを想起する想像力の在り方なのではないでしょうか。彼らの作品に共通するのはひとつの切り離された世界を描くことができない点、つまりある特定の地域・時代(ヴァイキングのいたヨーロッパや東北の農村など)をモチーフにしたとしても、世界全体に普遍的に存在するものごとの在り方を描く方向へ、自然と向かってしまう傾向だと感じます。かれらの作品がどこか不器用で野暮ったいところがあるが、同時に強烈な熱を感じるのはそのためではないかと思うのです。普遍的なものが描きたいという気持ちが強くて、なにかを切り離して描くことができないがためではないか、と。

不器用な狂熱を放っているという点で、私は佐々木中の著作も「神的批評」を読みながら想起します。佐々木の現在の主著である『夜戦と冷戦』。ラカン・ルジャンドル・フーコーという3人の思想家のテクストの中に、精神分析と法と歴史がとぐろを巻いて渦巻く場所に突っ込んでいきながら、生きていくことのなかになにを「賭けていく」かという結論を探り当てるという非常に濃厚な作品です。この『夜戦と永遠』と『神的批評』とは熱っぽさだけでなく、作品のテーマ自体も重なって読める部分があります。たとえば、大澤が柄谷行人論の中で、マルクスの経済学を援用しながら、「わたしはわたしである」ためには他者が必要であるというテーゼから他者と経済を論じるところ。これは、佐々木がラカンに寄り添い描いた鏡のモチーフと重なります。鏡のモチーフとは、単純に言ってしまえば子供が自分の姿を鏡に映るのを認識することではじめて自己を統合でき、その鏡とは「他者」のことであるということです。また、柳田國男論のなかで、大澤は労働と歌は切り離されていなかったという柳田の考えから思考を深めます。これはテクスト=法というもののなかには踊りや歌、芸術が含まれていたという佐々木の主張とリンクしていきます。佐々木はこうした踊りや歌、芸術は、1000年代初頭にそれまで意味不明だった『ローマ法大全』というテクストを約200年の年月をかけて解釈することによって切り離されたと考えます。この作業は、情報のデータベース化を全世界で初めておこない、結果的に世界の姿を一変させたものであり、佐々木はこれを〈中世解釈者革命〉と呼んでいます。この辺りはルジャンドルを援用した考えのようです。

佐々木と大澤と相違点としては、佐々木が見ているのは人間世界の普遍だが、大澤が見ているのはすべての自然を含めた世界の普遍であるということができるかもしれません(この「自然」という言葉についても大澤は論じていて、単純には使えない言葉ではありますが)。大澤が自然へと目を向けるのはおそらく宮澤賢治の影響なのではないかと思います。どちらが正しいとかは簡単に言うことはできません。これは文章を書く大本の欲求の在り方が異なっているという話です。

ただ、作品と作り手というものは異なる受け取りかたをするべきだと考えている私にとっては『神的批評』は作品と作者の思いを同化させすぎているように感じます。向き合うという言葉の真摯さに対して、自分の考えのために他人の作品を援用しているような歯の浮くところがあります。作品が作り手を離れた独立した結晶だという認識が、この本には欠けているように感じます。その認識こそが大澤自身が生み出す結晶を、より研ぎ澄ませるものになるのではないか。そんな風に考えたりもします。

そして、『神的批評』は常にうしろに神が見ているような、テクストと対峙しているようで神と対峙しているような印象を与えます。しかもその神が「その人」として4本のテクストの最後に登場します。「その人」がなにを指すのか指摘するのは野暮の極みのようなものなので口をつぐみます。ただ、ひとつ指摘できることは、『神的批評』は「私」と向き合う作品であると先ほど書きましたが、大澤のなかでその「私」とは「神という他者」との関係性の中で見出されるものなのでしょう。「私と神の関係を問う」という意味で、この本は聖アウグスティヌスの『告白』を継承している作品なのではないでしょうか。

以上、『神的批評』を元にしてあれやこれや書いてきましたが、私は『神的批評』から見えた風景と今私が見ている風景を重ね合わせながら文章をつづっているような気がします。それがさらに、これを読んだあなたの風景にもわずかばかりでも重なることができたら幸いです。

 

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