I was only joking訳したりとか

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andymoriについて 02:16


  ぼくらはandymoriに何を期待するのかーそのような問いから文を始めてみたいと思います。
彼らに、彼らの音楽に何の「期を待つ」というのでしょうか。

 結論からいえば、こうなるでしょう。
「ぼくらはandymoriになにも期待していない」と。さらに言えば「なにも期待してはいけない」と。

 小山田宗平という人はいつでも、自らが届ける音楽を他人との距離ではかりながらとらえたりはしませんでした。今でもそうだと思います。ただただ、自分が表現して、自分が世に出したいものを作る。そうした態度を貫ける稀有な人だと感じます。
ぼくは彼らのライヴを去年の秋に一度観たことがあります。
ぼくの心に今でも残っているのはライヴの内容以上に、coca-colaと書かれたぴちぴちのTシャツをさも当たり前に着る小山田宗平の佇まいでした。
普通ではありえないファッション、でも彼の中では普通。そして誰もそれに文句を言えない。文句を言われても彼には関係ない、彼には必然があるから。アルバムのタイトルが「革命」だと聞いた時も、同じようにありえないけど彼には普通のことなんだろうな、と思いました。ただ、彼は自分の表現したいことをただ表現してしまう人間なんだな、と感じました。

 他人が求めるものを想像しながら作るのではなく、自分が伝えたいと思ったものを素直に綴った歌詞。「革命」の歌詞について、小山田宗平はそのようにインタビュー(「MUSICA」にて)で語っています。
たしかにストレートな表現が増えました。
「バンドを組んでいるんだ。すごくいいバンドなんだ。みんなに聴いてほしいんだ。バンドを組んでいるんだ。」(「ユートピア」)
「大好きなCDをかけてあのころに帰ろう。まだ恐れも知らなかった、無邪気なあのころに。恋人よ、あなたを愛さない日はない。明日も100年後も、好きだよ好きだよ。」(「Peace」)

 引用したらキリがない。誤読の仕様もない、言葉。言葉。伝わらないことを避けるような、わかりやすい言葉。かつてのシュールさを捨てた言葉。

 しかし、本当に誤読の仕様もないのか。わかりやすい言葉なのか。
結局のところ、シュールに見えた最初のandymoriの頃から、何も変わってないのではないでしょうか。

 まるでギターの教則本の1ページ目に出てきそうな、ロックやフォークの基本的なコードに乗った歌。コードが単純な分、くねくねと動き這いまわるベース、時にスピード感を変化させながら(たとえば「革命」のイントロ、「Weapon of mass distruction」のブリッジ部分)リズムを刻むドラム。ギターはひずみながらも決してコード感を失わない。おそらくはロックンロールと同じくらいカントリーやフォークを愛好するであろう彼らのメロディ指向。ときに3のリズムを混ぜながら(「Peace」のギターフレーズ、「投げKISSをあげるよ」のイントロ)4のリズムの中で続く歌。歌うドラマーから刻むドラマーに変化したこと以外、音楽的要素は初期から変わってはいません。
同じように変わらないものが言葉にも見受けられるはずです。一枚目から「ハッピーエンド」の歌詞を観てみます。

「夕暮れの井の頭公園でコーラの空き缶蹴っ飛ばして、もう駄目かもしれないとこぼした君の横顔すごくきれいで。
それはハッピーエンドなんだ。ハッピーエンドなのさ。どうせどこにもいけないのならずっとここにいてもいいんだよ。」

 ここに見えたのは深みの限りをしらない慈しみと、虚無と怒りのアイロニー、そのふたつの顔ではないでしょうか。どちらにも固定できない、両義性がここには見られます。「ずっとここにいていい」と「ぼくはここにはいないけど」が永久に反復されるような、そんな歌。小山田宗平の歌声から伝わるもの、それは愛情と無関心の間に決着がつかない、という永久的な矛盾であるように思います。

 そして今作。曲をまたいで歌詞を観てみれば、やはり簡単には理解できないメッセージがあるように感じます。
恋人に好きだよと歌いながら、他の曲では君みたいなきれいな人形がほしいというわがままを発する。
みんなに聞いてほしいんだと歌いながら、他の曲では一瞬の夢に出会えるのは30分だけと諦めを発する。(ちなみに対バン形式のライヴ、だいたいのバンドが経験するライヴの時間は30分)

 ストレートに見えた言葉。しかし通してアルバムの声に耳を向ければ、そこにあるのはやはり両義性でした。声の響きだって変わってはいません。ポップと形容できそうなメロディは、どこまでもポップにはならない響きを連れてきます。「本当の心」と歌うときに、声をしゃがれさせながら叫ぶ切実さを含まなくてはいけないのです。青い空を謳歌するような、気楽そうなカントリーナンバー「Sunrise & sunset」の中で「嘘つきは死なない、争いは止まない、欲しいものは尽きない、悲しみは消えない」と繰り返さなくてはいけないのです。「スーパーマンになりたい」という無邪気な欲望がここでは悲しみと繋がれています。

 つまり、今作でも彼らの見る風景は愛情と無関心が混ざってしまう世界の風景です。それは夜のようなものです。彼らの歌はいつだって夜における戦いです。絶対に光の通らない、愛情と無関心の区別がつかない真っ暗な夜における戦いです。時に青い空の途方もなさに呆然としながらも、夜から逃れることはできないのです。ブラックホールの向こう側にどうすれば、投げKISSが届くだろうか、せめて投げKISSだけでも届けることはできないだろうか。「夜がやってきて、君も僕もはなればなれ。」そんなぼくらにまったく通路はないのだろうか。そんなことを探り続ける戦い。雲が大量破壊兵器を連れて東へ東へ流れるとしても、ぼくらは南へ南へ向かうことができないだろうかと試す戦い。神様に会いに行くように、リズムを刻みながら空を行くこと。祈りを込めて歌うこと。彼らの祈りは戦いです。無責任に願うこととはわけが違います。

 さて、そんなわけでぼくらはかれらandymoriに何を期待するのでしょうか。何の「期を待つ」のでしょうか。戦いはすでに始まっています。ブラックホールを越えて伝わろうとする、そんな「革命」を起こすための戦いはとっくのとうに始まっています。彼らが「Follow Me」と歌ったころから始っていたことではないでしょうか。2年前に「ついてこい」と言われてるのにもかかわらず、なにを待っているのか。いまさらなにを無責任に願うというのか。
 ぼくらにできるのは、ぼくらがぼくらなりに戦うこと以外にないように思われます。彼らの歌がいつでも彼らの戦いであることと同じように、ぼくらはぼくらの夜の中で戦うこと以外にはないのではないでしょうか。結局のところ、andymoriの歌に力があるとすれば、戦いに寄り添うことと戦いの後で生まれるものを想像させること、それだけだと思います。代わりに戦ったりはしてくれません。武器にも薬にもなりません。ただそこにあって、イマジネーションを掻き立てる、それだけのために存在する歌。ぼくはそのためだけのちっぽけな歌を愛おしく感じています。それが音楽における最良のものではないだろうかとも、思ったりもします。
 なにも期待したりせずに、すべてを諦めた後で、まだまだ続く日々を生きること。そんな日々を続けるためのイマジネーション。空洞を覗く目と、祈る手と、祈る声とともに。






| 音楽 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by tachesong - -
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Comment








ものすごく読み応えのある記事でした。

特にandymoriのシンプルさから一歩踏み込んだ、両義性への言及は興味深かったです。
posted by boriboriyabori | 2011/07/22 10:42 AM |

紳助引退の真相はこちら
http://-fwaooo.ato.zetto.info/-fwaooo/
posted by AtoZ | 2011/08/27 8:43 PM |
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