I was only joking訳したりとか

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自己検閲について(あるいはだれかわからない人のための家畜) 22:57
 最近は仕事から帰ってくるともう眠くてなんも手がつきません・・・
今日は久しぶりに休みで時間が取れたのでたまってたやりたいことに取りかかってみるつもりです。
どこまでできるやら・・・

もう10日前くらいになりますけど、ヤン・シュヴァンクマイエル監督がドミューンに出演していました。
番組後半で検閲についての話になりました。
ヤンさんは「社会主義・絶対主義の時代の体制の検閲には、絶対的なものはずっと続かないうからいつか終わるという希望があった。今の商業主義の時代は売れるものじゃないと発表してはいけない、という自己検閲を強いる時代。それは気付かないうちに起っていることであり、加えてこの時代はいつか終わるという希望がない。だから今の商業主義の時代の検閲のほうが恐ろしい。自己検閲をすることは家畜になり下がることである」と述べました。数十年検閲と衝突し続けたヤンさんらしい観察だと思います。
しかし「自己検閲を行うこと=家畜になること」はそれほど醜い行為なのか。ヤン・シュヴァンクマイエルは「そうだ」といいます。
しかし、作品を作るときに「自分に正直であること」と同じくらいに「作品に触れてくれる他人に気を配る」ことも重要です。
作品に触れてくれる人の気持ち・感情を想像すること。その心遣いがなければ、その作品はただの独りよがりの小便くさい代物になるのではないでしょうか。
だから作品を作り発表するときに思いやりから自ら検閲を行うことは醜い行為どころか必要な行為です。むしろ他人を無視した検閲を行わない作品こそ醜いです。
芸術活動も社会にかかわりを持つ行為である以上、他者を無視することは実質あってはいけないことです。

とはいいつつも、ぼくはヤンさんの意見におおむね賛成する立場です。
問題は作品に触れてくれる他人の数をそれぞれのパーソナリティが把握できないほどの数として想定しているときに、つまり大衆・マスを想定したときに生じます。
大衆・マスを想定して作品を作ることは思いやりや心遣いではありません。なぜなら心を向ける対象のパーソナリティが把握できていないからです。パーソナリティ・性格・人間性を把握できない限り人を思いやることはできません。
そして大衆・マスを意識して、大衆・マスに気に入られるように作ったものは当然自分に正直なはずはありません。
つまり、大衆・マスを想定した作品は「自分に正直であること」も「作品に触れてくれる他人に気を配る」こともなしに作られることになります。
創作活動の心構えに空白が生じるわけです。
その空白を埋めるのは金や名誉への欲望です。
金と名誉のための自己検閲。これがヤンさんが「家畜になること」といったものの正体です。
人間性を欠いた人間の集団のことなど考慮に入れてはいけないのです。
つまり、

「大衆・マス」という概念を受容すること、

それが商業主義です。

では、多くの人に開かれたかたちで存在している作品(音楽・映画・文学・漫画・美術、なんでもかまいません)は作られたときに大衆・マスを想定しているのではないか。そうしたものはすべて否定されるべきなのか、という疑問が生じるかもしれません。

少し話が横に逸れます。先月まで六本木の森美術館で開かれていた美術家・彫刻家の小谷元彦の展覧会「幽体の知覚」を見に行ったときにぼくはヤン・シュヴァンクマイエルの作品と共通したものがあると感じました。
小谷はインタビューなどで「目で見れないものを形にするのが彫刻である」と語っています。つまり「幽を実にすること」。これが「幽体の知覚」というタイトルの意味だと思います。
彼は動植物の運動の軌跡を彫刻にした作品、滝をイメージさせる水が落ちる映像に囲まれた空間をデザインした「映像彫刻」のような作品、脳内でイメージされる映像を彫刻化した作品などでテーマに沿った作品を展開します。
ヤン・シュヴァンクマイエルはドミューンのインタビューで夢の重要性に多く触れていました。作品の源泉を夢に多く求めているようです。彼の作品には現実にあるもののグロテスクさや心のなかのグロテスクさが提示されるよことが多いですがそれらは夢からイメージをひろげたものです。
つまりリアリズムは私たちが日常的に現実と呼んでいるものよりも夢のなかにみつかる可能性が高いものだ、ということがヤン・シュヴァンクマイエルの作品のなかで語られていることです。
小谷は「幽を実に」。ヤンは「夢を実に」。ふたりとも同じことをいっています。
目に見えないもの、心の中に存在するものを実在化させること、それが彼らの作品に共通に流れるモチーフです。

そして、目に見えないもの、心の中のものとは極めて個人的なものです。
その個人的なものが多くの人に見えるものして提示されています。
思うに、多くの人々に開かれた作品(この部分を「ポップ」と置き換えてもかまいません)の魅力、それはきわめて個人的なものが社会に開かれて社会的なものになるという運動、ダイナミズムのなかにあります。
作家の自らの内側から湧いてくる欲求によって吐き出されたもの、身近な他者の日常に彩りを与えるために作られたもの、そうした小さい世界で充足していたものが社会の中へ飛び出していく魅力。
最初から大勢の人々を想定したものには、そうしたダイナミズムが欠けているのだから面白みを損なうわけです。
自分と大事な他者の家畜になら、ぼくとあなたの家畜になら喜んでなります、でもだれかわからない人々の家畜になるのは死んでもごめんなんです。

ちなみに、ヤンと小谷の共通点として虫と昆虫のモチーフと食・排泄のモチーフが多いことも気になるところですが、今のところその意味を文章におとせなそうなので別の機会に譲りたいと思います。
そういえば夏にラフォーレでヤンさんの展示会があるみたいですね。楽しみです。








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