I was only joking訳したりとか

| CALENDAR | RECOMMEND | ENTRY | COMMENT | TRACKBACK | CATEGORY | ARCHIVE | LINK | PROFILE | OTHERS |
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | - | - | posted by スポンサードリンク - -
まわる、うつる 映画「SOMEWHERE」 18:21
 
SOMEWHERE

 今年は観たい映画が多くて、そういう年はたいていどれを観るか悩んでいるうちになにも観ずにすごしてしまいがちです。今年も「ソーシャルネットワーク」「アンチクライスト」を筆頭に観たい映画を次々と見逃してきました。なんとか歯止めをかけようと公開締め切りギリギリの「SOMEWHERE]を。
 ソフィア・コッポラの映画は「ヴァージン・スーサイズ」を観たきりで、その他の作品をスルーしてきたので久々です。

 (ネタバレ注意です)

 冒頭、カメラの前を車が通過していき、向こう側に見える道の奥へと消えていきます。しかし、車はふたたび現れ、消えたと思えばまた現れます。車の通っている道は輪になっていて、同じコースを車がひたすらまわり続けていることに気づきます。しばらくして、カメラの前で車は止まり、車の中から男が登場。ここでタイトルが表示されて場面転換となります。
 この冒頭シーンはストーリーとは直接の関係を持ちません。ストーリーとは別に作家が意味を持たせた場面だと考えられます。次のシーンで大音量のロックが流れる中、瓜二つの女性二人が室内でポールダンスを踊っています。2人の奥には鏡が配置してあって、同じ人間が4人踊っているかのようです。ダンスがしばらく続いた後で、カメラにはそのダンスを寝ながら見ている男が映し出され、主人公はこの男であることが明らかに。

 はじまってからの二つのシーンの中に、この映画で特徴的に表象されるもの、動作が見つかります。まず、「まわり続ける」こと。車は同じ道をまわり続け、2人のダンサーはポールをまわり続けます。このダンサーたちは後ほど、別のコスチュームでふたたび現れて再度ポールダンスを披露します。また、主人公の娘(かわいい)はフィギュアスケートを習っていて、彼女がスケートリンクをまわりながら踊るシーンにはかなり長い時間が割かれています。
 そう、なにかがまわるシーンは常に長い時間映されます。

 もうひとつの特徴的な表象、それは「鏡」です。ポールダンスのシーンは後ろに鏡があることはもちろん、踊るダンサー達も瓜二つで、まるで一人の人間が鏡に映っているかのよう。加えて、後のシーンでハリウッド俳優である主人公と新作映画で共演する女性とが写真撮影されます。このとき、真後ろに2人の映された映画のポスターが、まるで鏡で映されたかのように配置されます。ポスターとポスターの前に佇む二人はカメラの中でさらに増殖します。

 ぼくがそうした表象から思い浮かべたのは、同じところで回り続けることに疲弊し、合わせ鏡のように無限増殖されるなかで、オリジナルとしての自分の自己同一性を疑う主人公の姿です。
 主人公は疲弊し、疑い続ける日々の中で、注目されているハリウッド俳優という立場にもかかわらず、自らを「見られているもの」というより、ただ孤独に何かを「見ているもの」として意識します。そのせいか何かをみているシーンは常に長回しです。ポールダンサーをみる、フィギュアスケートをする娘をみる、いやがらせのメールをみる、セクシーな女性の看板をみる、交通事故現場をみる、髪を切っているヌードの女性をみる。すべてが執拗に長く映されます。だから彼は、娘の孤独に寄り添えない自らの無力感を目の当たりにしたあとで、「自分は空っぽだ」と泣きます。同じところを回って、自らのアイデンティティの基盤を失い、ただ見つめるだけの人間。そのような姿が彼の自画像です。
 この映画は、主人公がそのような空っぽから抜け出そうとするまでを描いた映画です。空っぽを象徴するフェラーリの車から彼が突然降りて、歩き出すところでこの映画は終わります。

 総じて考えてみれば、『SOMEWHERE』は普遍的な感情・ストーリーを描いた作品であると同時に、映画人特有の感情・ストーリーを描いているように思われます。
そこには、監督ソフィア・コッポラがフランシス・コッポラの娘として幼少期から映画とのかかわりを持ち、そこから離れることなく映画の世界の中に居続ける、という個人史が重なって映っているかのようです。この映画自体が、映画を繰り返し作り続けるソフィア・コッポラの鏡となるかのように。
| その他 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by tachesong - -
the concept(改稿版) 05:28
 まどまぎ見てたら朝です。

というわけで最速レビュー!

(アニメーションの知識、特に技術論の知識がないので物語に沿って考えたこと中心です。本来自分の中のルールでは技術を知らないでの批評は反則なのですが、今回はあらゆることを考える上でヒントとして機能するものだと思うので特別に。ストーリーについて語っているので、もちろんネタバレです)

不条理な現実とそこからの救済への祈り、すべてを受け入れる神=概念、という構図を考えてみて、『魔法少女まどか☆マギカ』はキリスト教を踏襲した物語として捉える事が出来ると思います。聖書の現代版、カジュアル版とも言えるかもしれません。

第10話まで(つまり今日まで)の話まででは映画『冷たい熱帯魚』との相似点を多く感じていました。
物語の構造が似ているのです。主人公は弱さや悩みを自意識に抱えた弱者で、そこへ突然現れて主人公をだます愛想のいい他者がいて、主人公は暴力と恐怖の渦へのみこまれていくという構図は『冷たい熱帯魚』と『マドマギ』で同じです。

『冷たい熱帯魚』の監督、園子温は自作を「救いのないことにより癒される暗いファンタジー」とパンフレット内のインタビューで称しておりました。
まどまぎも「暗いファンタジー」としての絶望を宿した途方もない暴力を望む声によって支えられる作品だと思っていました。

というわけで、正直最終話は予想外でしたよ。
まさか神になるとはねぇ。
すべての道が途絶えそうになった時、まどかの選択は「希望そのものになることを希望する」というものでした。
この力により今までの魔法少女(歴史的に有名な女性も魔法少女だったという設定)の絶望を解き放したまどかは、その希望の代わりに、人間ではない概念として存在する以外になくなりました。

少し「概念」という言葉について語ります。
佐々木中の『切り取れ、あの祈る手を』という本の中で、ニーチェが「妊娠」「出産」の比喩を多用することに付言して、「概念」とは「concept」という英単語の日本語訳であること、そして「concept」には語義に「妊娠」という意味があることを示しています。
つまり「概念」とはなにかを宿すこと、妊娠することです。
「概念」となったものがなにを妊娠するか。
それは世界です。
まどかは「概念」となることで新しい世界の創始者となりました,

すべての絶望をひとり背負い、自らは生命ではない概念となるうこと、そこから新しい世界を始めること。これはまさにキリストの描写と重なります。

キリスト教世界の古典、聖アウグスティヌスの『告白』の中での神の描写も時空を超越した概念、「この世界のconcept」としての神です。たとえば以下のような描写があります。

「あなたは物体的なものの心象ではなく、わたしたちが喜び、悲しみ、望み、恐れ、おぼえ、忘れなどするような心を持つものの情念でもないように心そのものでもないのである。あなたは心の主なる神であられて、これらのものはすべて変化するが、あなた自身はすべてのものの上に変化することなくとどまり、しかもわたしがあなたを知るようになってから、かたじけなくもわたしの記憶に宿っておられる」(『告白』第十巻 第二十五章)

この描写はまどかが再編した世界に生きるほむらにとっての、まどかの描写としても活きます。

また、『マドマギ』の同性愛的描写にも言葉を添えていいかもしれません。物語に紡がれていく同性同士の少女たちの心のぶつかりあいであり、最終的には概念となるまどかとそれを悲しむほむらの裸の抱擁というシーンに向かいます。
キリスト教は同性愛を禁じながら同性愛的傾向を保持している宗教です。宣教されたアフリカの部族がキリスト教と出会うことによって、同性愛に目覚めるというケースも確認されているそうです。前出した『告白』にも男性同士の交流は描かれるのに男性と女性の交流はほとんど描かれません。
もちろんアニメーションにはいわゆる「百合」の流れがあるのでそこに乗っかったアニメとしても考えることもできるのですが、キリスト教的な物語であるがゆえに同性愛の要素が濃くなったと考えるとよりこの物語の底が少し見えてくるように思えます。

なぜこのようなストーリーを作家は選んだかには考える余地が十分にあり、今のところそこまでは踏み込んで考えられません。
ただ、絶望からの希望の産出としてのストーリーが、キリスト教のストーリーと類似したということは注目していいものです。

今の時代に、あのドでかい宗教体制について考えてみることは、あらゆる楽しみ(とそれに伴う苦しみ)に深みを加えることかもかもしれません。

| その他 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by tachesong - -
自己検閲について(あるいはだれかわからない人のための家畜) 22:57
 最近は仕事から帰ってくるともう眠くてなんも手がつきません・・・
今日は久しぶりに休みで時間が取れたのでたまってたやりたいことに取りかかってみるつもりです。
どこまでできるやら・・・

もう10日前くらいになりますけど、ヤン・シュヴァンクマイエル監督がドミューンに出演していました。
番組後半で検閲についての話になりました。
ヤンさんは「社会主義・絶対主義の時代の体制の検閲には、絶対的なものはずっと続かないうからいつか終わるという希望があった。今の商業主義の時代は売れるものじゃないと発表してはいけない、という自己検閲を強いる時代。それは気付かないうちに起っていることであり、加えてこの時代はいつか終わるという希望がない。だから今の商業主義の時代の検閲のほうが恐ろしい。自己検閲をすることは家畜になり下がることである」と述べました。数十年検閲と衝突し続けたヤンさんらしい観察だと思います。
しかし「自己検閲を行うこと=家畜になること」はそれほど醜い行為なのか。ヤン・シュヴァンクマイエルは「そうだ」といいます。
しかし、作品を作るときに「自分に正直であること」と同じくらいに「作品に触れてくれる他人に気を配る」ことも重要です。
作品に触れてくれる人の気持ち・感情を想像すること。その心遣いがなければ、その作品はただの独りよがりの小便くさい代物になるのではないでしょうか。
だから作品を作り発表するときに思いやりから自ら検閲を行うことは醜い行為どころか必要な行為です。むしろ他人を無視した検閲を行わない作品こそ醜いです。
芸術活動も社会にかかわりを持つ行為である以上、他者を無視することは実質あってはいけないことです。

とはいいつつも、ぼくはヤンさんの意見におおむね賛成する立場です。
問題は作品に触れてくれる他人の数をそれぞれのパーソナリティが把握できないほどの数として想定しているときに、つまり大衆・マスを想定したときに生じます。
大衆・マスを想定して作品を作ることは思いやりや心遣いではありません。なぜなら心を向ける対象のパーソナリティが把握できていないからです。パーソナリティ・性格・人間性を把握できない限り人を思いやることはできません。
そして大衆・マスを意識して、大衆・マスに気に入られるように作ったものは当然自分に正直なはずはありません。
つまり、大衆・マスを想定した作品は「自分に正直であること」も「作品に触れてくれる他人に気を配る」こともなしに作られることになります。
創作活動の心構えに空白が生じるわけです。
その空白を埋めるのは金や名誉への欲望です。
金と名誉のための自己検閲。これがヤンさんが「家畜になること」といったものの正体です。
人間性を欠いた人間の集団のことなど考慮に入れてはいけないのです。
つまり、

「大衆・マス」という概念を受容すること、

それが商業主義です。

では、多くの人に開かれたかたちで存在している作品(音楽・映画・文学・漫画・美術、なんでもかまいません)は作られたときに大衆・マスを想定しているのではないか。そうしたものはすべて否定されるべきなのか、という疑問が生じるかもしれません。

少し話が横に逸れます。先月まで六本木の森美術館で開かれていた美術家・彫刻家の小谷元彦の展覧会「幽体の知覚」を見に行ったときにぼくはヤン・シュヴァンクマイエルの作品と共通したものがあると感じました。
小谷はインタビューなどで「目で見れないものを形にするのが彫刻である」と語っています。つまり「幽を実にすること」。これが「幽体の知覚」というタイトルの意味だと思います。
彼は動植物の運動の軌跡を彫刻にした作品、滝をイメージさせる水が落ちる映像に囲まれた空間をデザインした「映像彫刻」のような作品、脳内でイメージされる映像を彫刻化した作品などでテーマに沿った作品を展開します。
ヤン・シュヴァンクマイエルはドミューンのインタビューで夢の重要性に多く触れていました。作品の源泉を夢に多く求めているようです。彼の作品には現実にあるもののグロテスクさや心のなかのグロテスクさが提示されるよことが多いですがそれらは夢からイメージをひろげたものです。
つまりリアリズムは私たちが日常的に現実と呼んでいるものよりも夢のなかにみつかる可能性が高いものだ、ということがヤン・シュヴァンクマイエルの作品のなかで語られていることです。
小谷は「幽を実に」。ヤンは「夢を実に」。ふたりとも同じことをいっています。
目に見えないもの、心の中に存在するものを実在化させること、それが彼らの作品に共通に流れるモチーフです。

そして、目に見えないもの、心の中のものとは極めて個人的なものです。
その個人的なものが多くの人に見えるものして提示されています。
思うに、多くの人々に開かれた作品(この部分を「ポップ」と置き換えてもかまいません)の魅力、それはきわめて個人的なものが社会に開かれて社会的なものになるという運動、ダイナミズムのなかにあります。
作家の自らの内側から湧いてくる欲求によって吐き出されたもの、身近な他者の日常に彩りを与えるために作られたもの、そうした小さい世界で充足していたものが社会の中へ飛び出していく魅力。
最初から大勢の人々を想定したものには、そうしたダイナミズムが欠けているのだから面白みを損なうわけです。
自分と大事な他者の家畜になら、ぼくとあなたの家畜になら喜んでなります、でもだれかわからない人々の家畜になるのは死んでもごめんなんです。

ちなみに、ヤンと小谷の共通点として虫と昆虫のモチーフと食・排泄のモチーフが多いことも気になるところですが、今のところその意味を文章におとせなそうなので別の機会に譲りたいと思います。
そういえば夏にラフォーレでヤンさんの展示会があるみたいですね。楽しみです。








| その他 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by tachesong - -
| 1/1 |