I was only joking訳したりとか

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『聲の形』は『裁かるるジャンヌ』だ 00:08

 

 

 

 

 

 

モリッシーの来日公演、ぼくはいかなかったけど

デンマーク出身の映画作家カール・ドライヤー監督の『裁かるるジャンヌ』がステージ後ろのモニターに映っている写真をツイッターで観た。

バスドラムにもルネ・ファルコネッティ演じるジャンヌの顔写真が貼られていた。

 

 

 

 

今から映画『聲の形』について語ろうと思っているけど、何故行ってもいないモリッシーの来日の話をしたのか。

この映画がモリッシーがかつてフロントマンを務めたバンドThe Smithsの曲を思い出させたからだ。

「Bigmouth Strikes Again」と名付けられたその曲は16分で刻まれる鮮やかなギターリフに乗せて大口叩きの男の子の嘆きが歌われている。こういう歌詞がある。

 

今僕はジャンヌダルクの気持ちがわかった

ジャンヌダルクの気持ちがわかったんだ

炎がローマ風の鼻まで届いて

彼女の補聴器が溶け始めた時の気持ちが・・・

 

映画『聲の形』を観はじめて、まず驚愕するのはThe Who「My Generation」が流れるところだ。

ロジャー・ダルトリーのf,f,f,fade away!!という吃った歌声はコミュニケーションの困難さを主題にしたこの映画に、異物感を与えながらもマッチしている。

 

 

しかし、やはりここはSmithsだ。

Whoから思春期の男の孤独という主題を受け継いだバンドの歌だ。

耳の聞こえない女の子と彼女をかつていじめていた男の子との恋物語のなかに、好きな子を言葉で傷つけたことに対して後悔し続ける歌はすっぽりと収まる。

そして、そんな曲の中でジャンヌダルクと補聴器が歌われ、

モリッシーのステージにはジャンヌを題材にしたサイレント映画の名作が映し出された。

これらの事実が示すことはただひとつ。

『聲の形』は現代の『裁かるるジャンヌ』だということだ。

 

『裁かるるジャンヌ』は1928年に公開され、未だに語り継がれている傑作だ。

ジャンヌ裁判の記録を紐解く劇映画。

異常に低い、もしくは高いアングルで撮られた顔のアップ(全員ノーメイク)が特徴的で、

地面に穴を掘り、そこにカメラマンが入って撮影されたという。

クラシカルな題材だが、ハンマーが延々と繰り返し動くシーンだとか画の撮り方にモダンな感性が宿っていて、

同時代のマシーンエイジな工場映像とか無意味さを追求するダダとの共振を感じさせる。

何度観ても刺激的な素晴らしい映画だ。

 

ぼくは最初、『聲の形』をスルーするつもりでいた。

絵的にもテーマ的にも苦手そうだったし。

だが、センスのいい友人が激賞していた。時間もできたし観に行こうと思った。

 

結果的に、僕は泣きまくった。

比喩でも何でもなく物理的に泣きまくった。

主人公の石田に自分を投影する要素が多過ぎるし(加害者意識と被害者意識の混合、羞恥心、中高時代の孤独感)、硝子、結弦、植野、永束、石田母などそれぞれのキャラクターの切実さを丁寧に描いているので泣きのポイントがたくさんある。後半30分、涙を止める隙がなかった。

だけど感動したのは泣けるからだけじゃない。

翌日、もう一度同じ映画を観にいった。

気づいたのは細かい演出の上手さ。冒頭からその後のキーモチーフになる鯉が写されていたり、友人となる永束と石田が出会う前から自転車ですれ違ってたり、花火と傘が時間を置いて二度重要な場面で登場してたり、黄・オレンジ・ピンクの色の並びが何度も描かれたり(硝子のプレゼント、観覧車、屋台の看板、石田と結弦が食べるゼリー)、挙げるとキリがないけどとにかく映画的仕掛けに満ちている。視点の位置や動かし方も見事。大事なシーンで顔を映さないさり気なさやジェットコースターから空に向かう時の開放感が心地よい。足元と草花の描写が執拗なのは石田が俯きがちに下ばかりを見ているからで、その視点は姉・硝子の生存を願いながらも動植物の死体をカメラで撮り続けてしまう結弦の目にも憑依している。また、草花は石田を陰で見つめ慕い続ける勝気な女の子、植野直花の名前にもつながっていて、路上の花は彼女の報われない想いに捧げられているはず。監督が一番共感しているのは植野になんじゃないかな。 
脚本に関しては、他の方も指摘していた通りよくよく観ていけばいじめの元凶はメガネ教師ってわかるんだけど、悪の懲罰とは関係ないところで困難な状況の克服をすすめていくのが最高だと思う。悪者を指摘して叩くことの無意味さを教えてくれる。 
あと、やっぱり指摘しておきたいのは西宮硝子演じる早見沙織さんの演技の素晴らしさ。この映画の「重さ」は彼女の演技が担っている。言葉になるかならないかの微妙なところを上手く表現しているのには素直に驚いたし、クライマックスに硝子の発話がクリアになるところは二回観てもボロ泣きだった。

 

『裁かるるジャンヌ』と『聲の形』には同じ記号が描かれる場面がある。窓枠が、地面に映って十字架の形になるところだ。

硝子がすべてのトラブルの原因を自らに見いだし、自殺しようとするシーン。石田はベランダに佇む硝子に気づくと同時に、窓枠の影が十字を形作っていることを発見する。硝子が重い荷物を背負っていたことに気づく。

 

さらに、地面ばかり写す、つまり視点が下に向かっているのは、審問官や神学者たちの顔は下からのアップ、ジャンヌの顔は上から見下ろすようなアップで撮られていて、あたかもジャンヌを全員で上から取り囲んでるような印象を与える『裁かるるジャンヌ』のカメラワークを思い起こさせる。

西宮硝子は聞こえるべきものが聞こえないせいで疎外された。オルレアンの少女は聞こえるはずがない声が聞こえたことで魔女だと疎外され、そして処刑された。彼女達の関係は対をなしている。

映画ではオミットされいるが『聲の形』原作では自作映画を撮る話が出てくる。撮られたのは白黒のサイレント映画だった。

 

視点移動で感情を表そうとするセンスと音を聞こえない(聞こえる)ことによる受難劇。音があるはずのところに音がないという事実。

なにより、有罪者であるという感覚に、激しい罪悪感に打ちのめされながら、どうやって生の尊厳を示していくかという試みを描いていること。

少年マガジンに掲載されたマンガ原作のアニメ映画と、世界中の映画監督が愛したデンマークの伝説的映画が結びつくのは少しもおかしなことじゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・なんてね。

可愛い人、ぼくはほんのジョークのつもりだったんだ。

 

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『わたしたちを知っているものはいない』 23:06

 

想像力は必ず失敗する。バストリオ主催、今野裕一郎は

『わたしたちを知っているものはいない』のアフタートークで何度もそう語っていた。

桜台poolに10ヶ月ぶりに行った。自分がイベントを開かせてもらった場所。

普段はライヴ中心のスペースだけど、今回は演劇だった。

 

観劇中喉が渇くといけないと思って、事前にコンビニ世界のキッチンシリーズの温かい葡萄ジュースを買った。

劇の受付で1ドリンクもらえることに気づいてハッとなる。冷たいミルクティーを手に取った。

ペットボトル二つで膨らんだ仕事鞄を椅子の横に置いた。横に席はなかったけど、通る人の邪魔にならないか気になった。

 

バストリオの演劇を観るのははじめてだった。

5人の女性と1人の男性。みな若く見える。

話らしい話がないようだ。断片的に語られる言葉たち。

ライトとマイクが天井から吊るされていた、それぞれ異なる高さに配置されていた。

時にマイクを使ってしゃべる。ほとんど地声でしゃべる。

飛行機に乗るときに、何故飛ぶかという原理を知らないことがふと怖くなる体験、とても具体的な体験談。

生まれること、死ぬことについての抽象的な言葉。

ランダムに並列される。

 

観光地。沖縄。沖縄に行く話が出てくる。

ボスニアで戦う話が出てくる。

桶に水を溜める。それがやがて溢れて、ステージ、といっても観客との間に段差はないのだけど、

演じている場所がずぶ濡れになっていく。

そこを裸足で歩く女性。紙幣を濡らす女性。

電話が至る所でなっている。iPhoneのアプリでピアノの音をだす。

何度か壁に映像が映る。ステージを上から撮影しているリアルタイムの。

英語字幕つきで言葉が映る。生きている、死んでいる、信じる。

alive,dead,believe.

ステージ右側にはA4用紙がいくつも貼られていた。

まっさらな。風に揺れている。時に役者の体の影が映る。

 

かなり頭が混乱したまま上演は終了した。

断片が断片のままに残っていた。

佐々木敦氏をゲストに迎えたアフタートークで、強調されたのは想像力だった。

本編でも何度も使われていた言葉。

大事だと誰もが思っているが、使われすぎてすぐに胡散臭くなってしまう、そんな言葉。

想像力は結局、不完全なもので、届かないもの。つまり負けるもの。それでもあえてやる。そう語られていた。

もう一つ印象的な言葉。客席で病気になった人がいても役者が「大丈夫ですか?」とケアしにいっても成立する演劇を目指している。

だから役者達のスマホの電源はonになったままだった。電話が鳴っても成りたつ、崩れない演劇。

バストリオの演劇は届かないとわかっていながらどこまでもつながろうとする演劇だった。

おそらくぼくの寝不足と仕事終わりのせいでつかれた体には届かない想像力がたくさんあった。

元気だとしてもそこまで状況は変わらないかもしれない。

それでも構わない、と伝えるような演劇だった。

ぼくはそういう演劇を観た。

また観に行こうと思った。

 

 

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ロロ「校舎、ナイトクルージング」 23:34

(2015年1月14日、横浜STスポット)

校舎は偉い。マジで校舎は偉い。
ロロの「校舎、ナイトクルージング」がひたすらにおもしろいのは校舎のおかげだ。絶対、たぶん。そうかも。
校舎にいる彼らは割り切っているようで割り切れない関係の中にいる。
斜め前の席に座っているよくわからない奴が、10年後に自分と本当になんの関係もないやつになっているということを知らない。
デリカシーのない彼氏がそのうち思い出のフォルダに片付けられて、容量が足りなくなれば自動で消えていく存在だということをしらない。
人間関係なんて流れる水のように流動的だぞってことを知らない。
だけどもしかしたらそうかもしれないことを知っている。
そうかもしれないことを知っている彼らのすべてを知っているのは校舎だ。だから校舎は偉い。

ところで、おれはなんで高校演劇をやらなかったんだろう。
「校舎、ナイトクルージング」は「いつだって誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校(いつ高)シリーズ」という連作の2作目。
なんて魔法的!なタイトル。
(ちなみに小沢さんは勝手にやればいいと思う。
下手に欠落を、埋めようとしないでいいのだ。どうせ埋まらないから!)
この連作はロロの三浦直之が高校演劇の審査員をやるなかで感銘を受けて思いついた作品群。
高校演劇と同じルールに基づいて上演される。
準備は10分以内。上演は60分以内。時間を一秒でも超えれば審査対象外。
この独特の厳しさを備えたルール自体が演劇の一部になっていて、
演劇の時間の独特さってあるんだな、と実感。
それって多分当たり前だけど。
おれの人生の独特さによっておれは高校演劇はやらずに、
演劇楽しいな〜って20代後半になって気づくことになって
なんとなくこんな文章を書いて、いつ寝ようかなと考えている。
時間ってほんと嫌いだよ。
でも、肝試しをする健全な高校生と夜にうろつく不審なやつらが織りなす
なんてことない会話が、
恋人と見る夢のように素敵なのは時間のおかげなんだな。

今回出演した3人の女優さんは全員最高だ。
だからこの上演も最高、それ以上の理由は考えるのもめんどくさいんですけど。
うん、ぼくはめんどくさがりなのでもうなにも考えません。
北村恵さんが出てくる瞬間は魔法だったなぁ。
フワフラミンゴ観たときも思ったけど、
あの人が作り出す笑いは魔法だし、
魔法使える人は本当に偉い。
滝沢綾乃さんと島田桃子さんの出る演劇は何本でも観たい。
観せてくれ!

校舎と高校演劇と女優が魔法の正体だと思うけど
そんなことは割とどうでもよくて、
語ることのむなしさを思い知らされているぞ。
だけど語るの楽しいぞ。
「校舎、ナイトクルージング」は
演劇ほど魔法的なものはないこと
を思い出させてくれた上演。
仮面をかぶって朗読しがちなおれに説教したい!

いつ高シリーズ第三弾はまだ未定のようですけど、
観て損はないです!

 
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LAヴァイス(インヒアレント・ヴァイス)について 22:45
ポール・トーマス・アンダーソン監督のトマス・ピンチョン『インヒアレント・ヴァイス』が先月から公開されたが、今回はその原作『LAヴァイス』について軽く言及。(映画も見たが、あの映画を語るには一度の鑑賞では足りないと感じた)


 
 「彼女は細い路地を抜け、階段からのぼってきた」
   「寄せては返す波の音が坂の下から聞こえてくる」

 
 小説の冒頭部から二つの文章を引いてみたが、ここからわかることは、この小説内でなにかが起こるときにそれは上下運動を伴って現れる、ということだ。ロスのヒッピー風私立探偵ラリー・’ドック’・スポッテッロの家に突然元カノであるシャスタが現れるところから、この小説ははじまる。すべての事件が開始する合図は、シャスタが階段を「上る」ことにあり、それに対して坂の「下から」世界が呼応する。その後で、シャスタは失踪した愛人であり不動産王ミッキー・ウルフマンの捜索を元カレドックに依頼する。
 たとえば205ページ。ボリス・スパイビー(ミッキー・ウルフマンのボディガード)がビリヤードで真上から打ち下ろすように球を回転させるショットを披露する。この後にボリスは失踪する(ちなみにボリス・スパイビーという名前はThe Whoの『Boris The Spider』という曲名に由来すると思われる)。
 または82ページ、ドックが車でウルフマン邸へと向かう場面。通りの壁には「見慣れないツタの花が満開で、まるで炎の色をした滝が壁から流れ落ちているようだ。」喧噪とドタバタにまみれたウルフマン邸シーンをツタの滝が予告している。
 挙げたらキリがない。ドックの元秘書ソルティレージュが語る失われた大陸レムリアの再浮上(140ページ)、ラスベガスのさびれたカジノ〈キスメット〉のシャンデリアからはクリスタルが回るルーレットの上へ落ち(322ページ)、不始末によるアパートの火事は上の部屋のウォーターベッドの水で消火される(403ページ)。ある登場人物の死因はトランポリンからの転落死だ。
 このように、この小説では上下運動の描写が頻繁に登場し、その度にドタバタが展開されていく。逆に、ドックが水平線を見つめるシーンは非常に穏やかなタッチで描写される。垂直は〈動〉、水平は〈静〉、それがLAヴァイスの世界のルールだ。なにより、この小説のエピグラフは「歩道の敷石の下はビーチ!」というパリ五月革命時の落書きなのだ。

 1970年のロサンゼルスという時代と土地。60年代後半の世界のうねりと熱狂を体現したようなLAの姿が、そこで示された新しい世界への希望が、少しずつ潰えていく。そんな荒廃へ向かう時代の空気を示す、という意図がこの小説には存在する。ウッドストックの一週間前にチャールズ・マンソンとその取り巻きは若きハリウッド女優を殺した。その恐怖がロスにどんな不自由さをもたらしたかは、『LAヴァイス』で執拗に言及される。
 同時にこの小説のなかにはインターネットの元となった「APPAネット」についての描写もある。時代の荒廃の中で立ち現れてくる新たな世界の風景がここからは見える。電子上の新たなサーフボード。結局不都合なものが見えた時点で、LSDのように政府や警察から取り上げられるものだとわかっていても。
 ドックは入り組んだアメリカンワールドに翻弄されながらも、一人のサックスプレーヤーの生活を救う。そして、不透明な霧に包まれながら新しいなにかを待つ。上下運動の描写は、世界の没落と勃興に共振している。『LAヴァイス』で示される絶望と希望は今と地続きであり、決してただの回顧録にはとどまらないのだ。


 補足として。247ページに自動車整備工場が登場するが、メインの工場は「カマボコ型のプレハブ建築を縦半分に切り、その二つの半キレが頭上高く交叉するように溶接され、まるで協会のアーチ天井のよう」になっている。車の修理工場は教会なのだ。この小説のメインキャラクターにはそれぞれ乗っている車があり、製作年とメーカーがすべて示されている。これほど、車とパーソナリティが密接に結びついてる小説もないだろう。筆者は車については疎く、その車がどういう特性を持っているかを知らないのが残念。いずれにせよ、車と音楽とハッパとサーフィンが当時の若者のすべてであったことの意味がこの小説を読めば見えてくる(Steely Danの『Babylon Sisters』はLAの若者が見ていた風景を見事に描写している。『LAヴァイス』と『Babylon Sisters』およびSteely Dan作品全般とのシンクロニシティはヤバい)。

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アンドロイド演劇『変身』 16:14
 
   
   平田オリザ演出のアンドロイド演劇『変身』を観た。
 フランツ・カフカの有名不条理小説の「朝起きたら毒虫に変わっていた」を、「朝起きたらアンドロイドに変わっていた」に置き換え、演劇化した作品。舞台となる再築された早稲田小劇場どらま館に入ると、早速白い顔のアンドロイドがベッドに寝そべっている。顔以外は内部構造がむき出しになっている彼は、小さく揺れ動きながら上演を待っている。
舞台となる場所時代も原作とは違い、2040年のフランスが舞台だ。どうやら国全体の経済は芳しくなく、なぜ始まったかもわからない戦争に人々が駆り出され、移民問題は依然として大きな問題となっている。そんなフランスの近未来のなかで、両親と妹と同居している会社員グレゴワール・ザムザは目覚めると自分の体が機械になっていることに気づく。しかも足が動かなくて、働くこともできない。家族は最初、タチの悪い冗談かと思うが、そのうちに現実に起こったことだと認めざるを得なくなる。

 平田オリザ演出の舞台を観るでこれで3回目、その他戯曲も何冊か読んでいるが、彼のテーマは常に一貫している。言い換えれば、同じことばかりを問題にしている。戦争と貧困と人種問題、この3つがワンセットになった世界の出口なしの感覚。平田演劇は常にこれだ。常に同じなのは、作品だけでなく、作品を観たあとに残る感じも同じだ。これはおかしい。同じことを観ていれば飽きてくるのが普通じゃないのか。なのに、毎回なぜ、とてつもない何かに触れたような感触が残るのだろう。

 『二人のヴェロニカ』で有名な母役イレーヌ・ジャコブの椅子の蹴り方には驚いた。椅子が完全に垂直に跳ね上がる、あの蹴り方で抱える怒りの行き場のなさがはっきりと視覚化されている。父役のジェローム・キロシャーの、グレゴワールのベッドの横に置いてある植物の鉢に水をやる姿の痛々しいペーソスも素晴らしい。アンドロイドの目の見開き方、腕の上げ方はその存在の儚さを見事に証明する。役者たちの演技、一つ一つが私たちの目を奪う。平田作品に触れた時に感じる「とてつもないなにか」は、目の前で生身の存在が演技をしていることそのものへの、驚きや喜びに由来するのではないか。
このことは、平田の戯曲『南へ』でも引用され、今作では最後に強烈な効果を導き出す宮沢賢治の詩、『月天子』がなによりも雄弁に物語っている。

私はこどものときから
いろいろな雑誌や新聞で
幾つもの月の写真を見た
その表面はでこぼこの火口で覆はれ
またそこに日が射していゐるのもはっきり見た
後そこがたいへんつめたいこと
空気がないことなども習った
また私は三度かそれの蝕を見た
地球の影がそこに映って
滑り去るのをはっきり見た
次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
最後に稲作の気候のことで知り合ひになった
盛岡測候所の私の友だちは
――ミリ径の小さな望遠鏡で
その天体を見せてくれた
亦その軌道や運動が
簡単な公式に従ふことを教へてくれた
しかもおゝ
わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに
遂に何等の障りもない
もしそれ人とは人のからだのことであると
さういふならば誤りであるやうに
さりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに
しかればわたくしが月を月天子と称するとも
これは単なる擬人でない


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グザヴィエ・ドラン、Mommyについて 04:05


 驚いた。これはヤンキー映画だ。地方のヤンキーの親子の愛憎劇だ。
 まるで日本の至る所で繰り広げられているようなヤンキーの物語を、グザヴィエ・ドランが映画にするなんて。
そもそも、「Mommy」たる母親ダイアンのファッションセンスがやばい。ぴっちりした薄手のパーカーに刺繍のほどこされたジーンズ、加えてけばけばしいショッキングピンクのブーツ。まるで「ドン・キホーテ」で買い物しているおばちゃんのような服装。息子のスティーブも負けずにヤバい。ラグビーシャツに革ジャン、首には金ネックレス、ボトムはジャージ。ギャング気取りが完膚なきまでにダサい。ファッションアイコンであるドランが、ものすごくイケてない親子が主人公の物語を作ろうとしている。なぜ、このような作品を作る気になったのだろうか?
 しかし、そんなヤンキー親子を中心に描かれるこの映画はむせ返るようなロマンチシズムと、緊迫したエロティシズムに彩られた、それでいてあまりにも爽やかな儚く美しい青春映画として、僕や君の心をとらえる。
 ストーリーは母親ダイアンが施設に収容された息子スティーブを引き取り、引っ越して新生活を始めるところからスタートする。スティーブが放火を働き、施設の少年に大やけどを負わせたのが原因だ。立て直しを図ろうと誓う二人だが、ダイアンは運転中に事故に合い車をダメにし、さらには仕事もリストラ。精神的な障害を抱えるスティーブはキレやすく、新生活は殺し合い寸前の大げんかばかり。どうしようもないどん底のなかで、現れるのがもう一人の主要人物、向かいの家に住む主婦カイラだ。カイラは吃音を抱え、コミュニケーションがとれず引きこもりがち。そんなカイラとダイアン親子がひょんなことで親しくなり、表面上正反対に見えるダイアンとカイラは意気投合する。
 このカイラがとてもいい。普段押さえがちの感情が表面に出たときの豊かさ、怒るときも笑うときも動物的な美しさが溢れていて、おばさんといっていい風貌の女性に対して恋するような気持ちを味わってしまう。この映画はアスペクト比1:1の正方形の画面という非常に特殊な手法をとっているが、映画後半のカイラの横顔の美しさに触れると、この横顔を撮りがたいがために、この手法が採用されたのではないかと考えてしまうほどだ。
 とにかく、この映画は美しい。美しいものなどほとんど出てこないのに、この中年女性2人とクソガキ1人を中心に据えたこの映画はたまらなく美しい。美しいは正義じゃないが、正義は美しさのなかにしか宿らない。悪も然り。グザヴィエ・ドランは正義も悪も幸も不幸もエロスもアガペーもすべて詰め込んで終わりのない日々を切り取ってみせる。つまりそれは僕らの日々でありだれかの日々であって。
 この映画が教えてくれるのは、2時間の間、僕らは自分以外の誰かの人生を生きることができて、それはとても素晴らしいことで、そんな魔法をかけられる映画という存在がいかに有り得がたい、奇跡的な奇跡であるか、ということだ。人生。
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私とあなたをつなぐ暴力 ー大澤信亮『神的批評』についてー 10:09



 大澤信亮『神的批評』(新潮社、2010)を読みました。

宮澤賢治論、柄谷行人論、柳田國男論、北大路魯山人論の4本の批評からなる本で、それぞれが独立しながらも一本の幹でつながっている印象を受けます。
この一本の幹となるテーマを言葉で表すとしたら、「生きることとは暴力であり、その暴力といかに向き合うか」となるでしょう。
この本は文学批評とは呼べないでしょう。大澤が見ているのは、テクストを通した4人の生き方です。彼らが「生きるという暴力」とどのように接してきたか。それを吟味しようとしているので、作品の質を問うことはしません。
あとがきで、自分の批評原理は「自分を問うこと、自分が存在するという不思議を問うこと」であると述べているように、「生きるという暴力」というテーマは大澤本人の生き方のテーマです。
「生きるためには食べることが必要であり、食べることには必ず暴力が伴う。菜食主義になろうとも、暴力を伴うことには変わりない。植物がむしり取られるときに痛みを感じないとどうして説明できようか。水も火も空気も、生きているかもしれないではないか。私の存在自体が暴力なのではないだろうか」
このような感覚を前提として大澤の文が書かれているのを読者は読みながら感じます。
暴力とは他者との関係性で起きることです。暴力を考えることは他者を考えることであり、さらに言えば他者を考えることは他者との関係性のなかで育まれる「私」を考えることです。
自ずと「神的批評」の照射は他者を、私を問うものへと広がります。

こうした感覚は幸村誠の描く漫画とシンクロしているように感じます。
2070年代、近未来の人類がより宇宙へと進出した世界を舞台に描かれた「プラネテス」では、欲望を広げていくこと、その恩恵と代償の間で葛藤しながら生きる人々を中心にさまざまなテーマが問われています。生死、家族、宇宙、戦争、環境、愛。まとめてしまうと陳腐な、しかし私たちから切り離すことが不可能な問い。宇宙への憧れを抱いてきた主人公ハチマキこと星野八郎太は葛藤と出会いの中で「宇宙とは遠い存在ではなく、私をふくめたすべてが宇宙であり、宇宙に存在するすべての他者が私と関係している。他者をなくして、私は存在しない」という一つの解答を少しずつ見出していく。このハチマキの成長をストーリーの中心としながら、しかし一つの正解にまとまった終着ではなく、多くの疑問・解答が矛盾したまま同時に在り続ける、という形で物語は終わりを迎えます。
その後に幸村が描きだした今連載中の「ヴィンランド・サーガ」はヴァイキングが活躍する11世紀の北欧を舞台にした作品で、そのテーマは少し絞られたように感じます。それはつまり要約すると「暴力と愛」です。終わらない暴力の世界において、愛とはなんなのかというテーマを追求しているように感じます。「プラネテス」の時に比べ、より鋭利にキャラクターの感情を描くことが可能になったペン先でテーマの奥へと進んでいくことができるか。生きるという暴力を全肯定するヴァイキングたち、戦争と政略の渦中にいる王族と国家、神の尺度でこの世界を測るキリスト教徒たち、そうした異なった世界観がぶつかり合いながら進んでいく展開のなかで、どのような深みを見出していくのか。これからも読み続けていきたい作品です。
「ヴィンランドサーガ」の中では殺戮シーンと同じくらい、もしかしたらそれ以上食事のシーン、食卓に人々が集まるシーンが頻出し、強い印象を与えます。暴力を考える際に食への考察が避けられないという認識がそこに働いているように感じます。
恐らく、幸村の持つ認識と大澤のそれとはかなり近いところに位置しているようです。

また、二人の作品は宮澤賢治という人物でつながっています。
大澤は『神的批評』冒頭に「着想から発表まで十年かかった」宮澤賢治論を掲げ、幸村は「プラネテス」の中で賢治の詩を登場させたり、「グスコーブドリの伝記」をストーリーの中に持ち込んだりなどして賢治の陰を反映させようとしています。彼らが賢治からどのように影響を受けたか特定することは実質的に不可能ですが、この三者をつなぐものを一つ上げるとすれば、ひとつひとつの小さな繋がりから全体のつながりを想起する想像力の在り方なのではないでしょうか。彼らの作品に共通するのはひとつの切り離された世界を描くことができない点、つまりある特定の地域・時代(ヴァイキングのいたヨーロッパや東北の農村など)をモチーフにしたとしても、世界全体に普遍的に存在するものごとの在り方を描く方向へ、自然と向かってしまう傾向だと感じます。かれらの作品がどこか不器用で野暮ったいところがあるが、同時に強烈な熱を感じるのはそのためではないかと思うのです。普遍的なものが描きたいという気持ちが強くて、なにかを切り離して描くことができないがためではないか、と。

不器用な狂熱を放っているという点で、私は佐々木中の著作も「神的批評」を読みながら想起します。佐々木の現在の主著である『夜戦と冷戦』。ラカン・ルジャンドル・フーコーという3人の思想家のテクストの中に、精神分析と法と歴史がとぐろを巻いて渦巻く場所に突っ込んでいきながら、生きていくことのなかになにを「賭けていく」かという結論を探り当てるという非常に濃厚な作品です。この『夜戦と永遠』と『神的批評』とは熱っぽさだけでなく、作品のテーマ自体も重なって読める部分があります。たとえば、大澤が柄谷行人論の中で、マルクスの経済学を援用しながら、「わたしはわたしである」ためには他者が必要であるというテーゼから他者と経済を論じるところ。これは、佐々木がラカンに寄り添い描いた鏡のモチーフと重なります。鏡のモチーフとは、単純に言ってしまえば子供が自分の姿を鏡に映るのを認識することではじめて自己を統合でき、その鏡とは「他者」のことであるということです。また、柳田國男論のなかで、大澤は労働と歌は切り離されていなかったという柳田の考えから思考を深めます。これはテクスト=法というもののなかには踊りや歌、芸術が含まれていたという佐々木の主張とリンクしていきます。佐々木はこうした踊りや歌、芸術は、1000年代初頭にそれまで意味不明だった『ローマ法大全』というテクストを約200年の年月をかけて解釈することによって切り離されたと考えます。この作業は、情報のデータベース化を全世界で初めておこない、結果的に世界の姿を一変させたものであり、佐々木はこれを〈中世解釈者革命〉と呼んでいます。この辺りはルジャンドルを援用した考えのようです。

佐々木と大澤と相違点としては、佐々木が見ているのは人間世界の普遍だが、大澤が見ているのはすべての自然を含めた世界の普遍であるということができるかもしれません(この「自然」という言葉についても大澤は論じていて、単純には使えない言葉ではありますが)。大澤が自然へと目を向けるのはおそらく宮澤賢治の影響なのではないかと思います。どちらが正しいとかは簡単に言うことはできません。これは文章を書く大本の欲求の在り方が異なっているという話です。

ただ、作品と作り手というものは異なる受け取りかたをするべきだと考えている私にとっては『神的批評』は作品と作者の思いを同化させすぎているように感じます。向き合うという言葉の真摯さに対して、自分の考えのために他人の作品を援用しているような歯の浮くところがあります。作品が作り手を離れた独立した結晶だという認識が、この本には欠けているように感じます。その認識こそが大澤自身が生み出す結晶を、より研ぎ澄ませるものになるのではないか。そんな風に考えたりもします。

そして、『神的批評』は常にうしろに神が見ているような、テクストと対峙しているようで神と対峙しているような印象を与えます。しかもその神が「その人」として4本のテクストの最後に登場します。「その人」がなにを指すのか指摘するのは野暮の極みのようなものなので口をつぐみます。ただ、ひとつ指摘できることは、『神的批評』は「私」と向き合う作品であると先ほど書きましたが、大澤のなかでその「私」とは「神という他者」との関係性の中で見出されるものなのでしょう。「私と神の関係を問う」という意味で、この本は聖アウグスティヌスの『告白』を継承している作品なのではないでしょうか。

以上、『神的批評』を元にしてあれやこれや書いてきましたが、私は『神的批評』から見えた風景と今私が見ている風景を重ね合わせながら文章をつづっているような気がします。それがさらに、これを読んだあなたの風景にもわずかばかりでも重なることができたら幸いです。

 

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