『聲の形』は『裁かるるジャンヌ』だ | 00:08 |
モリッシーの来日公演、ぼくはいかなかったけど
デンマーク出身の映画作家カール・ドライヤー監督の『裁かるるジャンヌ』がステージ後ろのモニターに映っている写真をツイッターで観た。
バスドラムにもルネ・ファルコネッティ演じるジャンヌの顔写真が貼られていた。
今から映画『聲の形』について語ろうと思っているけど、何故行ってもいないモリッシーの来日の話をしたのか。
この映画がモリッシーがかつてフロントマンを務めたバンドThe Smithsの曲を思い出させたからだ。
「Bigmouth Strikes Again」と名付けられたその曲は16分で刻まれる鮮やかなギターリフに乗せて大口叩きの男の子の嘆きが歌われている。こういう歌詞がある。
今僕はジャンヌダルクの気持ちがわかった
ジャンヌダルクの気持ちがわかったんだ
炎がローマ風の鼻まで届いて
彼女の補聴器が溶け始めた時の気持ちが・・・
映画『聲の形』を観はじめて、まず驚愕するのはThe Who「My Generation」が流れるところだ。
ロジャー・ダルトリーのf,f,f,fade away!!という吃った歌声はコミュニケーションの困難さを主題にしたこの映画に、異物感を与えながらもマッチしている。
しかし、やはりここはSmithsだ。
Whoから思春期の男の孤独という主題を受け継いだバンドの歌だ。
耳の聞こえない女の子と彼女をかつていじめていた男の子との恋物語のなかに、好きな子を言葉で傷つけたことに対して後悔し続ける歌はすっぽりと収まる。
そして、そんな曲の中でジャンヌダルクと補聴器が歌われ、
モリッシーのステージにはジャンヌを題材にしたサイレント映画の名作が映し出された。
これらの事実が示すことはただひとつ。
『聲の形』は現代の『裁かるるジャンヌ』だということだ。
『裁かるるジャンヌ』は1928年に公開され、未だに語り継がれている傑作だ。
ジャンヌ裁判の記録を紐解く劇映画。
異常に低い、もしくは高いアングルで撮られた顔のアップ(全員ノーメイク)が特徴的で、
地面に穴を掘り、そこにカメラマンが入って撮影されたという。
クラシカルな題材だが、ハンマーが延々と繰り返し動くシーンだとか画の撮り方にモダンな感性が宿っていて、
同時代のマシーンエイジな工場映像とか無意味さを追求するダダとの共振を感じさせる。
何度観ても刺激的な素晴らしい映画だ。
ぼくは最初、『聲の形』をスルーするつもりでいた。
絵的にもテーマ的にも苦手そうだったし。
だが、センスのいい友人が激賞していた。時間もできたし観に行こうと思った。
結果的に、僕は泣きまくった。
比喩でも何でもなく物理的に泣きまくった。
主人公の石田に自分を投影する要素が多過ぎるし(加害者意識と被害者意識の混合、羞恥心、中高時代の孤独感)、硝子、結弦、植野、永束、石田母などそれぞれのキャラクターの切実さを丁寧に描いているので泣きのポイントがたくさんある。後半30分、涙を止める隙がなかった。
だけど感動したのは泣けるからだけじゃない。
翌日、もう一度同じ映画を観にいった。
気づいたのは細かい演出の上手さ。冒頭からその後のキーモチーフになる鯉が写されていたり、友人となる永束と石田が出会う前から自転車ですれ違ってたり、花火と傘が時間を置いて二度重要な場面で登場してたり、黄・オレンジ・ピンクの色の並びが何度も描かれたり(硝子のプレゼント、観覧車、屋台の看板、石田と結弦が食べるゼリー)、挙げるとキリがないけどとにかく映画的仕掛けに満ちている。視点の位置や動かし方も見事。大事なシーンで顔を映さないさり気なさやジェットコースターから空に向かう時の開放感が心地よい。足元と草花の描写が執拗なのは石田が俯きがちに下ばかりを見ているからで、その視点は姉・硝子の生存を願いながらも動植物の死体をカメラで撮り続けてしまう結弦の目にも憑依している。また、草花は石田を陰で見つめ慕い続ける勝気な女の子、植野直花の名前にもつながっていて、路上の花は彼女の報われない想いに捧げられているはず。監督が一番共感しているのは植野になんじゃないかな。
脚本に関しては、他の方も指摘していた通りよくよく観ていけばいじめの元凶はメガネ教師ってわかるんだけど、悪の懲罰とは関係ないところで困難な状況の克服をすすめていくのが最高だと思う。悪者を指摘して叩くことの無意味さを教えてくれる。
あと、やっぱり指摘しておきたいのは西宮硝子演じる早見沙織さんの演技の素晴らしさ。この映画の「重さ」は彼女の演技が担っている。言葉になるかならないかの微妙なところを上手く表現しているのには素直に驚いたし、クライマックスに硝子の発話がクリアになるところは二回観てもボロ泣きだった。
『裁かるるジャンヌ』と『聲の形』には同じ記号が描かれる場面がある。窓枠が、地面に映って十字架の形になるところだ。
硝子がすべてのトラブルの原因を自らに見いだし、自殺しようとするシーン。石田はベランダに佇む硝子に気づくと同時に、窓枠の影が十字を形作っていることを発見する。硝子が重い荷物を背負っていたことに気づく。
さらに、地面ばかり写す、つまり視点が下に向かっているのは、審問官や神学者たちの顔は下からのアップ、ジャンヌの顔は上から見下ろすようなアップで撮られていて、あたかもジャンヌを全員で上から取り囲んでるような印象を与える『裁かるるジャンヌ』のカメラワークを思い起こさせる。
西宮硝子は聞こえるべきものが聞こえないせいで疎外された。オルレアンの少女は聞こえるはずがない声が聞こえたことで魔女だと疎外され、そして処刑された。彼女達の関係は対をなしている。
映画ではオミットされいるが『聲の形』原作では自作映画を撮る話が出てくる。撮られたのは白黒のサイレント映画だった。
視点移動で感情を表そうとするセンスと音を聞こえない(聞こえる)ことによる受難劇。音があるはずのところに音がないという事実。
なにより、有罪者であるという感覚に、激しい罪悪感に打ちのめされながら、どうやって生の尊厳を示していくかという試みを描いていること。
少年マガジンに掲載されたマンガ原作のアニメ映画と、世界中の映画監督が愛したデンマークの伝説的映画が結びつくのは少しもおかしなことじゃない。
・・・なんてね。
『わたしたちを知っているものはいない』 | 23:06 |
想像力は必ず失敗する。バストリオ主催、今野裕一郎は
『わたしたちを知っているものはいない』のアフタートークで何度もそう語っていた。
桜台poolに10ヶ月ぶりに行った。自分がイベントを開かせてもらった場所。
普段はライヴ中心のスペースだけど、今回は演劇だった。
観劇中喉が渇くといけないと思って、事前にコンビニ世界のキッチンシリーズの温かい葡萄ジュースを買った。
劇の受付で1ドリンクもらえることに気づいてハッとなる。冷たいミルクティーを手に取った。
ペットボトル二つで膨らんだ仕事鞄を椅子の横に置いた。横に席はなかったけど、通る人の邪魔にならないか気になった。
バストリオの演劇を観るのははじめてだった。
5人の女性と1人の男性。みな若く見える。
話らしい話がないようだ。断片的に語られる言葉たち。
ライトとマイクが天井から吊るされていた、それぞれ異なる高さに配置されていた。
時にマイクを使ってしゃべる。ほとんど地声でしゃべる。
飛行機に乗るときに、何故飛ぶかという原理を知らないことがふと怖くなる体験、とても具体的な体験談。
生まれること、死ぬことについての抽象的な言葉。
ランダムに並列される。
観光地。沖縄。沖縄に行く話が出てくる。
ボスニアで戦う話が出てくる。
桶に水を溜める。それがやがて溢れて、ステージ、といっても観客との間に段差はないのだけど、
演じている場所がずぶ濡れになっていく。
そこを裸足で歩く女性。紙幣を濡らす女性。
電話が至る所でなっている。iPhoneのアプリでピアノの音をだす。
何度か壁に映像が映る。ステージを上から撮影しているリアルタイムの。
英語字幕つきで言葉が映る。生きている、死んでいる、信じる。
alive,dead,believe.
ステージ右側にはA4用紙がいくつも貼られていた。
まっさらな。風に揺れている。時に役者の体の影が映る。
かなり頭が混乱したまま上演は終了した。
断片が断片のままに残っていた。
佐々木敦氏をゲストに迎えたアフタートークで、強調されたのは想像力だった。
本編でも何度も使われていた言葉。
大事だと誰もが思っているが、使われすぎてすぐに胡散臭くなってしまう、そんな言葉。
想像力は結局、不完全なもので、届かないもの。つまり負けるもの。それでもあえてやる。そう語られていた。
もう一つ印象的な言葉。客席で病気になった人がいても役者が「大丈夫ですか?」とケアしにいっても成立する演劇を目指している。
だから役者達のスマホの電源はonになったままだった。電話が鳴っても成りたつ、崩れない演劇。
バストリオの演劇は届かないとわかっていながらどこまでもつながろうとする演劇だった。
おそらくぼくの寝不足と仕事終わりのせいでつかれた体には届かない想像力がたくさんあった。
元気だとしてもそこまで状況は変わらないかもしれない。
それでも構わない、と伝えるような演劇だった。
ぼくはそういう演劇を観た。
また観に行こうと思った。
ロロ「校舎、ナイトクルージング」 | 23:34 |
LAヴァイス(インヒアレント・ヴァイス)について | 22:45 |
アンドロイド演劇『変身』 | 16:14 |
グザヴィエ・ドラン、Mommyについて | 04:05 |
私とあなたをつなぐ暴力 ー大澤信亮『神的批評』についてー | 10:09 |
大澤信亮『神的批評』(新潮社、2010)を読みました。
宮澤賢治論、柄谷行人論、柳田國男論、北大路魯山人論の4本の批評からなる本で、それぞれが独立しながらも一本の幹でつながっている印象を受けます。
この一本の幹となるテーマを言葉で表すとしたら、「生きることとは暴力であり、その暴力といかに向き合うか」となるでしょう。
この本は文学批評とは呼べないでしょう。大澤が見ているのは、テクストを通した4人の生き方です。彼らが「生きるという暴力」とどのように接してきたか。それを吟味しようとしているので、作品の質を問うことはしません。
あとがきで、自分の批評原理は「自分を問うこと、自分が存在するという不思議を問うこと」であると述べているように、「生きるという暴力」というテーマは大澤本人の生き方のテーマです。
「生きるためには食べることが必要であり、食べることには必ず暴力が伴う。菜食主義になろうとも、暴力を伴うことには変わりない。植物がむしり取られるときに痛みを感じないとどうして説明できようか。水も火も空気も、生きているかもしれないではないか。私の存在自体が暴力なのではないだろうか」
このような感覚を前提として大澤の文が書かれているのを読者は読みながら感じます。
暴力とは他者との関係性で起きることです。暴力を考えることは他者を考えることであり、さらに言えば他者を考えることは他者との関係性のなかで育まれる「私」を考えることです。
自ずと「神的批評」の照射は他者を、私を問うものへと広がります。
こうした感覚は幸村誠の描く漫画とシンクロしているように感じます。
2070年代、近未来の人類がより宇宙へと進出した世界を舞台に描かれた「プラネテス」では、欲望を広げていくこと、その恩恵と代償の間で葛藤しながら生きる人々を中心にさまざまなテーマが問われています。生死、家族、宇宙、戦争、環境、愛。まとめてしまうと陳腐な、しかし私たちから切り離すことが不可能な問い。宇宙への憧れを抱いてきた主人公ハチマキこと星野八郎太は葛藤と出会いの中で「宇宙とは遠い存在ではなく、私をふくめたすべてが宇宙であり、宇宙に存在するすべての他者が私と関係している。他者をなくして、私は存在しない」という一つの解答を少しずつ見出していく。このハチマキの成長をストーリーの中心としながら、しかし一つの正解にまとまった終着ではなく、多くの疑問・解答が矛盾したまま同時に在り続ける、という形で物語は終わりを迎えます。
その後に幸村が描きだした今連載中の「ヴィンランド・サーガ」はヴァイキングが活躍する11世紀の北欧を舞台にした作品で、そのテーマは少し絞られたように感じます。それはつまり要約すると「暴力と愛」です。終わらない暴力の世界において、愛とはなんなのかというテーマを追求しているように感じます。「プラネテス」の時に比べ、より鋭利にキャラクターの感情を描くことが可能になったペン先でテーマの奥へと進んでいくことができるか。生きるという暴力を全肯定するヴァイキングたち、戦争と政略の渦中にいる王族と国家、神の尺度でこの世界を測るキリスト教徒たち、そうした異なった世界観がぶつかり合いながら進んでいく展開のなかで、どのような深みを見出していくのか。これからも読み続けていきたい作品です。
「ヴィンランドサーガ」の中では殺戮シーンと同じくらい、もしかしたらそれ以上食事のシーン、食卓に人々が集まるシーンが頻出し、強い印象を与えます。暴力を考える際に食への考察が避けられないという認識がそこに働いているように感じます。
恐らく、幸村の持つ認識と大澤のそれとはかなり近いところに位置しているようです。
また、二人の作品は宮澤賢治という人物でつながっています。
大澤は『神的批評』冒頭に「着想から発表まで十年かかった」宮澤賢治論を掲げ、幸村は「プラネテス」の中で賢治の詩を登場させたり、「グスコーブドリの伝記」をストーリーの中に持ち込んだりなどして賢治の陰を反映させようとしています。彼らが賢治からどのように影響を受けたか特定することは実質的に不可能ですが、この三者をつなぐものを一つ上げるとすれば、ひとつひとつの小さな繋がりから全体のつながりを想起する想像力の在り方なのではないでしょうか。彼らの作品に共通するのはひとつの切り離された世界を描くことができない点、つまりある特定の地域・時代(ヴァイキングのいたヨーロッパや東北の農村など)をモチーフにしたとしても、世界全体に普遍的に存在するものごとの在り方を描く方向へ、自然と向かってしまう傾向だと感じます。かれらの作品がどこか不器用で野暮ったいところがあるが、同時に強烈な熱を感じるのはそのためではないかと思うのです。普遍的なものが描きたいという気持ちが強くて、なにかを切り離して描くことができないがためではないか、と。
不器用な狂熱を放っているという点で、私は佐々木中の著作も「神的批評」を読みながら想起します。佐々木の現在の主著である『夜戦と冷戦』。ラカン・ルジャンドル・フーコーという3人の思想家のテクストの中に、精神分析と法と歴史がとぐろを巻いて渦巻く場所に突っ込んでいきながら、生きていくことのなかになにを「賭けていく」かという結論を探り当てるという非常に濃厚な作品です。この『夜戦と永遠』と『神的批評』とは熱っぽさだけでなく、作品のテーマ自体も重なって読める部分があります。たとえば、大澤が柄谷行人論の中で、マルクスの経済学を援用しながら、「わたしはわたしである」ためには他者が必要であるというテーゼから他者と経済を論じるところ。これは、佐々木がラカンに寄り添い描いた鏡のモチーフと重なります。鏡のモチーフとは、単純に言ってしまえば子供が自分の姿を鏡に映るのを認識することではじめて自己を統合でき、その鏡とは「他者」のことであるということです。また、柳田國男論のなかで、大澤は労働と歌は切り離されていなかったという柳田の考えから思考を深めます。これはテクスト=法というもののなかには踊りや歌、芸術が含まれていたという佐々木の主張とリンクしていきます。佐々木はこうした踊りや歌、芸術は、1000年代初頭にそれまで意味不明だった『ローマ法大全』というテクストを約200年の年月をかけて解釈することによって切り離されたと考えます。この作業は、情報のデータベース化を全世界で初めておこない、結果的に世界の姿を一変させたものであり、佐々木はこれを〈中世解釈者革命〉と呼んでいます。この辺りはルジャンドルを援用した考えのようです。
佐々木と大澤と相違点としては、佐々木が見ているのは人間世界の普遍だが、大澤が見ているのはすべての自然を含めた世界の普遍であるということができるかもしれません(この「自然」という言葉についても大澤は論じていて、単純には使えない言葉ではありますが)。大澤が自然へと目を向けるのはおそらく宮澤賢治の影響なのではないかと思います。どちらが正しいとかは簡単に言うことはできません。これは文章を書く大本の欲求の在り方が異なっているという話です。
ただ、作品と作り手というものは異なる受け取りかたをするべきだと考えている私にとっては『神的批評』は作品と作者の思いを同化させすぎているように感じます。向き合うという言葉の真摯さに対して、自分の考えのために他人の作品を援用しているような歯の浮くところがあります。作品が作り手を離れた独立した結晶だという認識が、この本には欠けているように感じます。その認識こそが大澤自身が生み出す結晶を、より研ぎ澄ませるものになるのではないか。そんな風に考えたりもします。
そして、『神的批評』は常にうしろに神が見ているような、テクストと対峙しているようで神と対峙しているような印象を与えます。しかもその神が「その人」として4本のテクストの最後に登場します。「その人」がなにを指すのか指摘するのは野暮の極みのようなものなので口をつぐみます。ただ、ひとつ指摘できることは、『神的批評』は「私」と向き合う作品であると先ほど書きましたが、大澤のなかでその「私」とは「神という他者」との関係性の中で見出されるものなのでしょう。「私と神の関係を問う」という意味で、この本は聖アウグスティヌスの『告白』を継承している作品なのではないでしょうか。
以上、『神的批評』を元にしてあれやこれや書いてきましたが、私は『神的批評』から見えた風景と今私が見ている風景を重ね合わせながら文章をつづっているような気がします。それがさらに、これを読んだあなたの風景にもわずかばかりでも重なることができたら幸いです。
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